そ れにしても、とエスティマは再びカップを口元に持ってゆく。やはり深い苦みしか感じない。予算を一番喰っていたデバイス関連の金も浮いたことだし、経費で 業務用ではなく、クソ高い家庭用のコーヒーメーカーでも買おうかと考えてしまう。そうすれば、苦み以外でも味わうことができるだろう。

ふと、飲み口に視線を落とすと不自然なてかりを見付けた。ルージュか何かだろうか。エスティマは化粧品にまったく詳しくないため、そうとしか思わなかった。

「間接キス、ねぇ」

発想が高校生か中学生のようだ。そういえば年齢的にはやては高校三年生になるのか、などと考える。
けれど、それで照れることができるほどエスティマは若くなかった。無論、身体は若いのだが。
しかし、照れることと意識しないことは別だった。

心に余裕が生まれたからなのか、エスティマはどうしてもはやての姿を目で追ってしまう。
勤務中だからこそ必要以上に接しないものの、それもこれからどうなるやら。

結社の中心人物であるスカリエッティを捕らえたことで、あの組織は自然に崩壊するだろう。
もともと協調性の欠片もない、自己中心的な研究者を無理矢理に集めて運営されていたのだ。むしろ、今まで活動できていただけでも賞賛に値するかもしれない。

変なカリスマでもあったのか、とエスティマはスカリエッティの顔を思い浮かべる。
しかし、自分の人生をねじ曲げた敵のことを考えても、少し前まで感じていた熱が湧いてくることはなかった。

もう気にかけるようなことは何もない。
結社に捕らわれていたクイントやメガーヌを取り返したことで、ナカジマ家との仲も修復された。スバルなんかは長年の憎悪が見当違いのものだったと知りぎこちないが、それも時間が解決してくれるだろう。

ルーテシア周りも問題なく。
表立ってテロに参加した記録はないので、今は施設にいるものの、その内にメガーヌの待つ家へと戻ることができるだろう。

ヴィヴィオに関してはどうなることやら。
生まれてない可能性が最も高いが、もしかしたら、結社の残党がゆりかごの奪取を企んでヴィヴィオを完成させる可能性もある。
が、あくまで可能性の話。結社の資金源であった企業の上層部を大掃除したため、今頃は資金難で研究も思うように進んでいないだろう。

ゼストのことも問題らしい問題はない。
身体がスクラップになる前にお役御免となったことで、今はレリックを摘出し、アギトに支えられながら療養している。
この前顔を見せに行ったときは、中将と紅茶を飲みながら軍人将棋をしていた。もしかしたらあの二人も和解したのかもしれない。

今、エスティマにとって悩みといえるものの大半はなくなっていた。胃を痛める原因も、心を蝕む焦燥も消え去っている。
だからだろうか。自慰のあとに感じるような虚脱感が、ずっと付きまとっているのだ。

決してそれが悪いわけではない。むしろ良いことだ。目の届く範囲にあった悲しみは、すべて喜びへと転化している。
しかし今までが今までだったからなのか、常に何かを忘れているような感覚を覚えるのだ。
……早く元に戻らないとな。

自分のレリックも早いところ摘出しないと、とエスティマはまとめ、再びコーヒーに口を付ける。
不味い。冷めつつあるそれは、まるで今の状況を現しているようだった。

これから自分は、どうやって生きてゆくのだろう。
決まっている。普通に仕事をこなし、普通に毎日を過ごすだけだ。ただ、今まであった目標がなくなっただけ。
ずっと望んでいた世界が目の前に広がっている。

これからは時空管理局の佐官として勤めてゆくことになるだろう。
六課の設立目的どおりに成果を上げられたことを評価され、昇進の話もきていた。年齢が年齢なのですぐには無理だろうが、遠い話ではない。

レジアスからは三佐の内に首都防衛隊の副長になってみないかと誘いを受けている。課ではなく大隊の。
六課のような付け焼き刃の部隊ではなくしっかりとした場所で経験を積み、ゆくゆくは――と。
どうやら今回のことで本格的に気に入られたようだ。ゼストを交えてゲイズ家でご馳走になっているときにそんな話を切り出された。

山場を越えたからかゲンヤからも、腰を落ち着けたらどうだ、と言われたりしている。ようは家庭を持てということだ。
彼は、はやてがどういう気持ちを抱いてエスティマの隣に立っているのか知っている。だからそんなことを云ったのだろう。
まだ二十歳にもなってませんよ、とその場は切り抜けたのだが、いつまで言い逃れできるのやら。

……どうなんだろうな。
一人、エスティマは口元を歪めた。
自分の手で捕まえると約束したフィアット――チンクは、突入の際に自分から投降してきた。
彼女は、自分との約束を忘れてしまったのだろうか。そんなことをエスティマは考えている。
そもそも馬鹿げた約束だと分かってはいる。しかし、馬鹿げたことだと分かっていながらも交わした約束だった。そのはずだとエスティマは思っている。
そのせいか、エスティマはチンクと顔を合わせる気分にならなかった。

ナンバーズの裁判は執務官であるエスティマが担当することになっている。
そのため、事務手続きを行う必要があり海上収容施設に足を運んだりもしたが、やはり顔を合わせてはいない。
……合わせる顔がないというのが正しいのかもしれない。

なんとも女々しい話だ。彼女の真意が知りたいのならば顔を合わせれて言葉を交わせばいい。
それを分かっている癖に行動に移さないのは、長年使っていなかった恋愛回路が錆びついているからか。
油断すると都合の良い方――はやてへと流れてしまいそうになる。が、それはいけないと、エスティマは自分にストップをかけていた。
はやてが自分へと向けくれる想いは、惰性で応えて良いような感情じゃないはずだ。決して。

「……残った問題はプライベート、か。まぁ、俺らしいっちゃらしいけど」

苦笑して、エスティマは仕事に戻った。
そして、早くすべてに決着を付けようと、胸中で呟く。
この仕事を終わらせたら、海上収容施設へ足を向けて……それで決着がついたら、ずっと待ってくれている彼女へ報告をしないと。
それがどんな結果になろうとも。










本局の無限書庫。以前は騒がしくも統率の取れた作業を行っていたスクライアの面々は、現在撤収作業に追われていた。
エスティマから依頼されていた聖王のゆりかごに関する資料は、これからあのロストロギアを管理する者たちに引き継がなければならない。
神経質というか、やや完璧主義なところのあるユーノは、可能な限りの範囲でデータの編集を行っていた。
もはや必要のないその仕事は、第三者から見ればサービス精神溢れる行動だ。

行っている本人もそれは分かっているのだろう。
ストロー付きのペットボトルを傍らに浮かばせながら、くつろいだ雰囲気をまとい、彼は編集作業を行っている。

その姿を、隣に浮かぶクーパーはなんとなく眺めていた。ちなみに、アルトはX字に身体を開いてすいよすいよと寝息を立てている。

「…ユーノ、さん」

「ん、なんだい?」

声をかけられ、ユーノは手を止めた。
少し前までならば、マルチタスクの一つを割いてクーパーへ意識を向けるだけで作業を中断することはなかっただろう。

クーパーは片眼をじっとこちらに向けている。その視線が彷徨いがちなことに、ユーノは気付いていた。
なぜか彼は名を呼ぶときにつっかえ気味の発音をする。視線だって今はマシな方だ。直視してもらえないことの方が多い。
クーパーと一緒に仕事をすることになりしばらく経つが、彼の態度が今の状態から進展することはなかった。

しかし、嫌われているというわけではないようだ。なんだかんだでクーパーは自分の周りで作業をする。
この中途半端なよそよそしさはなんだろう。仕事に余裕ができたことで、ユーノはクーパーに気を回すことができた。

そんなユーノの内心を知らず、えっと、とクーパーは言葉に詰まる。
これもまた、良くあることだった。
話しかけておいて、何を話せば良いのか分からない。そんな様子だった。
構って欲しいのかなぁ、とユーノは首を傾げる。存外、寂しがりやなのかもしれない。

「…あ、あの……エスティマさんって」

「うん」

「…身体が弱かったり、するんでしょうか」

「どうして?」

「…この前資料を送ったときに、メモにそんなことを書いていたから。
 アルフ……さんなんかは、死ぬななんて仰々しいことを」

「あー……そうだね。身体が弱いってのは、あまり間違ってないかも」

そこまで云って、実はね、とユーノは悪戯っぽく笑う。

「エスティマ・スクライアは改造人間である。
 彼を改造した結社は、違法研究の合法化を企む悪の研究者集団である。
 エスティマ・スクライアは改造された肉体を抱えながら、ミッドチルダの平和のために結社と戦うのだ!」

「…呆気なく壊滅しちゃいましたけどね」

「うん。……やっぱり面白くなかった?」

「…面白かったです」

反応に困る言葉を返し、クーパーは作業に戻った。
冗談めかしてけっこうな機密を喋ったユーノだったが、真実にしては嘘くさすぎるのでバレないだろう。

クーパーから視線を外すと、どうにも、とユーノは胸中で呟いた。
この子をどう扱えば良いのか。本当に気難しい。
会話を弾ませようにも、この子が何を好み、何を嫌っているのかがいまいち分からない。
乏しい表情からは、嘘を見抜くことだって難しい。今の会話だって、本当に面白かったのかどうか。
呆れられるだろうと思ったのに、反応はいつもと変わらぬそっけないもの。

ふと、笑顔を見てみたい、とユーノは思う。
嘲笑や苦笑などではなく、この子の満面の笑みをだ。
それが簡単ではない、むしろ難しいと分かってはいるが、手のかかる弟――エスティマの問題が解決した今、ユーノはクーパーの世話を無性に焼きたくなっていた。
なんだかんだで、ユーノも存外寂しがりやなのかもしれない。

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