一連の騒動も。過ぎ去ってしまえばどうという事は無かった。
勿論、悲しい終わり方をしなかったのは幸いだった。エスティマさんが死に、八神はやてさんが死に、
二人の子供も死ぬ。そして闇の書も転生……

 そんな終わり方じゃなかった事を、クーパーは普段ありがたみもしない聖王教の導きたる聖王に、
感謝してもいい気がした。それもこれも全部、エスティマが頑張った結果だ。
皮肉抜きで、ああいう人間がエースオブエースという称号を手にするべきなんだと、クーパーは思った。

 あの人がいれば、なんとかなる。そういったものや、戒めも含めて。敬意を払う。結果的に
八神はやてもお腹の子も、エスティマも無事生き残っているのだ。
頑張り過ぎたエスティマさんが、一度死にながらも息子さんの守護騎士として生きながらえているのも。

 たまには奇跡という言葉を使ってもいいのかも、しれない。そうでもなければ、彼が報われないとクーパーは思うのだった。
エスティマの頑張りは驚嘆に値した。彼の生き様をみると、立場諸々も含めて、きっと批判も多いだろうと察する。
唯々、事件の中心となった子が元気な産声をあげて、無事に生まれて来てくれる事を願うばかりだ。

 闇の書に関しては、八神はやてのの手元に残った。暴走も無くなり、ヴォルケンリッターはまだ主が生まれていない為、
闇の書の中に戻っているらしい。全てが丸く収まる話。たまには、こういうことがあってもいいだろう。
ハッピーエンドというのは、みんなが笑顔でいられなきゃ、悲しいものだ。なにせ、ハッピーなのだから。





エピローグ。







 はやてとエスティマ、それにヴォルケンリッターが暮らしていたレンタルハウスへと、クーパーは一人で向かっていた。
時刻は夜。街灯のぼんやりとした明るさを眺めながら歩く。静か、だった。
クーパーの背をアルトがよじ登り、肩から顔を覗かせていた。

 指先で喉元を擽ると、猫独特の鳴き声が咽から漏れてくる。
今回の一件、ほぼ何もしていないというのに、相変わらずマイペースなアルトだった。

「……はいはい」

 もっと撫でろとせがまれて、指を動かしながら。レンタルハウスに到着する。今日以降、ここに来る事も二度と無い。
エスティマの部屋に赴くと、呼び鈴のボタンを押すと、中から返事が聞こえてきた。

「はーい」

 エスティマさんの声だ。クーパーは、ドアを開けると裸体の女の人がいたらどうしよう、なんて、野暮な考えが脳裏を過ぎる。
んなわけないない。扉の向こうの男は誠実。だそうだ。イケメンのくせに。

「…クーパーです、書いてもらいたい書類を届けに来ました」

「あがってー」

 奔放な返事が返ってきた。鍵。かけてないのかと思いつつ、ドアノブを握れば抵抗も無く捻ることができた。
無用心な、と思いつつ中に入ると、エスティマはシャワーを浴びた後なのか、スラックスのズボンだけを履いて、
タオルで金髪をわしゃわしゃ拭いていた。本当に、イケメンは何をやっても様になる。。

 色っぽいと感じるのは、何故だろうか。イケメン補正ここに極まれり。

「…お邪魔します」

「おう、書類?」

 靴をぬいであがると、シャンプーの匂いが仄かに香った。均整の取れた体、程よくついた筋肉。書類を他所に、こういう人が、
女殺しなんだろうなぁとクーパーはしみじみする。

「…はい、明後日までに書いといて下さい」

「解った、態々すまないな」

「…いえ、」

 それじゃ、とレンタルハウスを後にしようとしたけど、アルトは何かに反応したように、僕の肩から飛び降りると、
勝手に中へと入っていってしまう。

「…あ、こら」

呼び止めても、無駄だった。中からこっち来いとばかりに猫の鳴き声が聞こえてくる。エスティマさんと眼が合う。
先に苦笑された。

「丁度食事にしようと思ってたんだ、食べてってよ」

 ここで、いいえと断れる程、器量も無かった。

「はい」

 諦めるしかない。それを、エスティマの苦笑が物語っていたことは言うまでも無い。

「…すみません」

「いいって」

 玄関口から中に入ると、既に片付けられた私物があった。テーブルの上には惣菜がちょこまかと並べられていた。
凄く、既製品風味が漂っていた。

「…何か作りましょうか?」

「いや、材料も無いから」

 明日、エスティマさんもここを後にする。今日からはやてが検査入院、ということで私物の整理も含めて、
エスティマさんはここで一泊する。後は、本局にお泊りだそうな。はやての体調面で問題がなければ、
直ぐにでも元の世界に戻るらしい。

 クーパーは時折忘れそうになるが、目の前の人物は部隊長なのだ。恐ろしく強いし。仮に模擬戦をやっても
十戦十敗する自信があった。威厳というか、そういうのがエスティマにはなくて、たまに価値観が狂う。
テレビの中の歌っている歌手に、見えないことも無いとっぽさだった。恐るべし、エスティマ・スクライア。

そんな人が、前線で、子供と妻の為に命を賭けて戦った、というのを考えると、頭が下がる思いだった。
なんとなく、口にしてみる。

「……ご苦労様でした……」

「?」

 当人もよく解っていなかったようだが、労いの言葉をかけエスティマは冷蔵庫から缶ビールを取り出してくる。

「飲める?」

「…喜んで」

 席に着くと、プルタブが空くいい音がした。当然、こういう時にいう台詞は決まっている。

「乾杯」

「…乾杯」

 アルコールが掲げられる。口付けた酒の味わいはなかなかのものだった。

「……っていうか、どうしてこんな量が……」

 テーブルの上には、スーパーに売ってそうな惣菜が所狭しと並んでいる。決してまずそうに見えないが、
何分、量が多い。小食のクーパーにしてみれば、なんともいえぬ心地だった。やはり、エスティマは苦笑する。

「食べてよ、一人じゃこんなに食えないし」

「…僕は小食ですよ」

「処分なんだって」

 そういう事らしい。冷蔵庫に眠っているものを全部温めたらごらんの有様だよ! という事になったそうな。
クーパーの膝の上のアルトは、野菜スティックを眺めたまま取ってくれとせがんでくる。我侭な猫だ。
一つとって口元に運んでやると、ヤギのように齧り始めた。変な猫だった。二人も箸を動かし始める。無論、後者はフォーク。

「世話になったな」

恐れ入る一言だ。先に思い出したエスティマの格を思い出すと、勝手に口調が固くなるクーパーだった。

「…いえ、そんな」

「いやいや、
お世辞じゃなくてさ。世話になったよ」

 それでも、優しい人柄もエスティマ故なのか。カリスマ性というか、この人物の傍には人が寄りそうなのが、
なんとなく解る気がした。かくいうクーパーも、もしもこんな人物がいたとしたら、侍っているかもしれない、
と心の何処かでは思うのだった。

「…僕の方もお世話になりました。最初は保護までして頂いて」

 いや、あいやいやと頭を下げ合いなんとも滑稽な図ができあがっていた。酒が進み笑いがこぼれる。悪くは無かった。
ビールを口に含み、一気に咽に流し込んでいく。

「いける口?」

口の中に残る炭酸に、小さなゲップをしつつ答える。

「…少しは」

「飲んでよ。
ビールもまだあるから。処分するのはもったいない」

「…はぁ」

 薦められるがままに、ビールをグビグビ飲み干していく。1本、2本、3本、4本、5、6、7、8と気づいたら
エスティマはあんまり飲んでなかった。食べてばっかりだ。どういうことなの……。少し顔を赤くしたクーパーが唸る。
すきっ腹に利いたらしく、大酒のみが珍しく酔っていた。

「…飲んでくださいよ……」

「飲んでるって」

 未だコップ一杯を見せ付けられる。膝の上では、もっと野菜と、野菜をくれと猫がねだる。一つまみすると、
口元に運ぶ。シュレッダーに飲み込まれていくように、野菜は消えていった。面白い……もう一つ、もう一つと
あげていくと、あっという間に野菜は無くなっていた。あげすぎた。

 顔が、アルコールによってぼんやりしながら、エスティマを見やる。フォークを伸ばしエビチリを突き刺した。

「…これからどうするんですか?」

「帰るよ」

「…あ、いや。そうじゃなくて」

「ん?」

「…これからも戦い続けるんですか?」

「どうだろうな」

 相変わらず酒も程ほどなエスティマ。飲め、もっと飲めと薦めるがあんまりだった。当人は
豚の角煮を口にしながら、頬を膨らませる。可愛い、と思ったのは、それこそ論外な話だった。
髪が短い大人版フェイトをみている気がしたなど、それこそ言えない。

「向こうに戻ったら戻ったで、色々と面倒と
面倒は待ってそうだけどさ。多分何も変わらないよ」

 どうでもいい気持ちは冷めていく。向こうの世界の事を手繰り寄せて思い出した。確か、部隊名は、

「…機動六課、でしたっけ」

「そう、でもあの部隊は一時的なものだし、
いつまで続くか解らないけど管理局員は続けるよ。
仕事だし」

 煮物をぱくつきながら、しみじみとしていた。クーパーも、酔っているのかしみじみしていた。

「…この先、お子さんも生まれますしね」

鼻で、笑われた。

「そうだな」

 そこには、一人の男というよりも。もう一人の父親がいた。よくもまぁできた人間だな、とつくづく
感心してしまう。が、こんな男にはなれないと解っている以上、なりたいとは思わなかった。

「…もうお名前考えてます?」

「それはない、いくらなんでも速すぎだろ」

そっか、と思い出した。

「…そういえばそうでしたね」

エスティマは聞き返した。

「そっちは?」

「…………………僕ですか」

 うーん、と首を傾げる。何も決まっていないクーパーだった。当初の目的だったスカリエッティはエスティマのお陰で逮捕され、
特に管理局にいる理由も無くなった。犯罪者として奉仕期間も、既に終わったようなものだ。
フェイトの義理で続けてもいいかもしれない、程度だった。

 あえて言うならウェンディだろうか。少なからず、想いを寄せている以上、あれの身の振り方次第で
今後を決めてもいいかもしれない。と一抹の考えが過ぎる。振り回されるのは、御免だけれども。

「…当面はフェイトの補佐官をやると思いますが、その先は決まっていません。多分、適当に嘱託魔導師を
したり、遺跡関係の仕事をやるんじゃないですかね」

「――そうか」

 スクライアに戻る気は無かった。辛気臭いを話をするのも嫌なので、この場では口にしなかったがお先真っ暗だ。
でも、思うほど悪い出足でもない。今回のことの顛末がハッピーに終わり、割と前向きになっている。そんな片目模様だった。
それもこれも、エスティマのお陰だった。エスティマを褒め称えすぎだ、と思うのならば本来辿る筈だった道をみてみるといい。

 結局、クーパーは自殺するのだ。そんな終わり方にくらべれば、万歳三唱してもいいほど
良い終わり方だ。少なくとも、闇たるアルトはそう思う。もぐもぐと、残っている惣菜に手を伸ばす。軽くなった
ビール缶を手でつまみながら、ぷらぷら泳がせる。

「…貴方みたいな人がスクライアにいたら、
きっと楽しかったんでしょうね」

唐突に、柄でもない事を言ってしまう。自分の発言に戸惑っていると、先に発言されてしまう。

「なら良かった。オレも、こっちの世界が悪いとは思わなかったし」

 屈託の無い笑みを広げられ、まあいいかと続けた。
格が、違った。10杯目のビールを飲み干し、缶を脇に寄せた。
アルコールが回る心地よさに浸りながら、吐息を落とす。

「…不思議ですね。次元世界多しといえど、こうやって
似て非なる人と世界があるんですから」

 それぞれの世界がある。クーパーはエスティマが帰るのを多少惜しみながらも、止めようとは思わなかった。
僅かに頬を朱に染め、喉がひくつかせる。瞼を落とす。

「…八神さんと、お幸せに」

 また、鼻で笑われる。

「ありがとう、そのつもりだよ」

「…それは失礼しました。ああ、余計なお世話ついでに、
思いますが、部隊長なりこのまま上を目指すなら余計なお世話を」

「ん?」

「…心配する必要は無いと思いますけど、状況も俯瞰できない指揮官は死にますよ。
今回はうまくいきましたけど、妻か子か。そうでないにしろ、なんらかの決断を迫られる時が来るかもしれません。
程よい自虐はいいですけど、それも程々にしないと
簡単に足元を掬われますよ」

 ねちねちねちねちねちねちと、酔っ払いが余計なお世話を言った。無論、エスティマも
言われる筋合いも無ければ解っていることだった。が、今回の一件を省みれば言われても仕方ない事は明らかだ。
決断の遅さは言わずもがな。ビールを煽りながら肩を竦めた。

「耳の痛い話だ、覚えておくよ」

 クーパーも同様に、新しいビールを煽る。11杯目開封。と同時に飲み干す。さらりと、二人は流した。
こんなところまで来て、口喧嘩も御免だった。

「…僕が言いたいのはそれだけです。すみません、
言っておきたかったんです。なんか心配だったんで」

 エスティマは苦笑する。箸で最後のエビチリをつまんだ。

「オレよりもクーパーの方が、年上に見えるのは気のせいか?」

「…気のせいじゃないと思います。じゃあ、
同じスクライアの忠告って事で、気持ちの片隅にでも
留めて置いてください。」

「そうするよ。……ああ、クーパー」

「…はい?」

「ユーノ。一日でも早く目覚めるといいな」

少し、間が開いた。どこで知ったかは聞かなかった。

「…はい」

しみじみした。が

「あ、それから」

「?」

エスティマが、何か相槌を打つ。
クーパーもビールを口に含んだところで

「ウェンディともうやったの?」

あまりにもストレートな質問に、飲みかけの
ビールをむせてしまう。あーあ、という目線で
アルトが見上げている。

「…ゲホッ、……どうしてそうなるんですか」

「あれ、違ったか」

うぶいな、と笑いながら煮物に箸を伸ばす。
エスティマだった。

「…まだそんなんじゃありません、それに」

「それに?」

「…どうしてエスティマさんに言わなきゃいけないんですか」

 ぷいと顔を逸らした。まさしくお子様な
反応だった。煮物を頬張りながら、大人風が吹く。

「避妊は大切だぞ」

が、白けた眼をするクーパー……。酒の場らしく、
どっちもどっちな話しだった。

「…こっちの世界ではやてさんを孕ませた人に言われたくありません」

ぐさりと、言葉が突き刺さった。思い出したくない事一つ。

「おま、痛い所を突くな……!
元の世界に戻った時のことなんか、考えたくもねぇよ!」

 無論、クーパーにとっては他人事に過ぎず、ここぞとばかりに鼻で笑った。

「…それ、自業自得です」

「ぬぐぐぐ……!」

 騒ぎながら、夜は更けていった。クーパーとエスティマ、同じスクライアでありながら、対極どころではない
位置づけの二人。世界も異なり、立場も異なる。かたや機動六課部隊長。かたや、しがない嘱託魔導師兼執務官補佐官。
多くを占める暖かな陽と気づかれもしない程の、小さな日陰。

 その二人が交わり、そして交差した結果がこれだ。悪くは無かった。
小さな日陰はとある陰鬱なドクダミが生えてそうな、さらに暗い日陰と太陽以外の交わりを拒む。

 酔いしれながら、クーパーはもう一度振り返る。

 悪くは無かった。ビールを流し込みながら、胸のうちに思うのだ。この男がユーノと同じように、義兄弟だったならば、とも。
そんなあり得ない過去が欲しかった。エスティマはあの陰鬱な日陰とは異なり、頼りになるし面倒見もいい。
あの喧嘩の場にいたのならば、うまくとりなしてくれただろう。

 でも、今目の前にいるエスティマ・スクライアは、夢幻でしかない。元の世界に戻れば、もう二度と会うことは無い。
非常に価値のある男ではあるが、酒を口に含みつつそれでいいと、クーパーは思う。アルコールと同じだ。

 夢幻とは、一瞬の刹那であるべきもの。縋るべきものでもなく、それにいつまでも頼ってはいけない。
夢幻に頼ったところで、待っているのは落胆とため息だけだ。
クーパーにとっての現実エスティマにとっての現実はそれぞれ異なる。

 今回の交わりは、有意義なものだった、という締めくくりのあっさりとした終わり方で、いいのだ。
それでいいのだ。そっと、エスティマは口を開く。

「クーパー」

「……?」

 今一度、杯が掲げられ缶と缶は軽い口付けを交わす。

「ユーノがはやく目覚めることと、
クーパーの恋路がうまくいことを願って」

同じく、杯を掲げる。

「…お子さんが、無事に生まれてきますように。
それから、エスティマさんが素敵なお父さんになりますように」

 馬鹿言え、とエスティマは笑いながら、再び乾杯の声があがった。それぞれが、
愛すべき者達と良き関係を結んでいけますように。何度目か解らぬビールを口付けながら、クーパーは思った。

「…あ、それから第二子も元気に生まれてきますように」

「気がはえーよ!」

 そんな二人だった。夜は更ける。数日後、入院するはやての検査結果が出て問題の無いことが
確認されると、エスティマ、はやて、シグナム、そしてリインは元の世界へと戻っていった。
突き抜ける青空が広がる、快晴の日のことだった。

 クーパーは、エスティマ達が去っていった広大な青空を、いつまでも眺めていた。
エスティマが去り、言えずに残した言葉を紡いだ。

「……僕も、楽しかったですよ」

 貴方を兄さんと呼ぶことは無い。それでも、敬い、敬意を払う価値のある人物で
あることも、間違いではなかった。ありがとう、と
一言返す。

去ってしまった、貴方へ。





 心の奥底にある願望があった。自分が何者なのかという疑問。それがクーパーを突き動かす根底でも
あった。フェイトの補佐官として動いていた彼は、スカリエッティがその鍵を握ると信じてきた。

 軌道拘置所に赴き、スカリエッティの牢の前に来ると用意してあったパイプ椅子に腰掛け喘がせた。
そして向かい合う。ジェイル・スカリエッティと。

「…思わぬ援軍のお陰で、あっさりと捕まってくれて
助かりましたよ。ドクター」

「そうかな? いやそうかもしれない。それもきっとそうなんだろう」

 相変わらず、牢に入ってもスカリエッティはスカリエッティだった。クーパーは隻眼を細めて
見やる。相手の言葉などガン無視だ。光学端末を表示させ、質疑の準備をしながらクーパーは述べる。

「朝食はどうでした?」

「美味しかったよ、至れり尽くせりだね時空管理局も」

「それは良かった、貴方に死なれても困りますし駄々捏ねられてもますます困ります。何かあったら
言ってください。できる範囲のことはします」

「ありがとう、それでは早速」

「なんでしょうか」

「ウェンディとはしたかな?」

一瞬、端末を叩く手が止まった。脳裏に過ぎる一人の女。穴あきコンドーム!
と宣言して、態々クーパーの財布に忍ばせる数日前の朝の騒動が思い出された。
……元の世界に帰った八神はやての入れ知恵が利いているらしい。

 夜這いといって夜に部屋に侵入してきたり、日に日に貞操の心配になるクーパーだった。
まだ、齢14にして父親にはなりたくないお年頃だった。

 エスティマの二の舞は、御免だ。鼻で笑う。

「してません」

「どうして?」

「馬鹿とはしません」

「おやおや、それは酷いな彼女は君用の機人だったんだよ?」

 溜息を落としながら手を動かし続ける。片目が、ちらりと見やった。

「光栄ですね。ウェンディは嫌いではありませんが、僕用とかそうでないとか、逮捕された以上。
行くべき筈だった道の答えは捨てるべきだと思います。悪の犯罪者は逮捕され、計画は破綻。あー万歳万歳」

 やる気のなさそうな声で、眼は端末に戻される。くっくと、スカリエッティも苦笑した。

「あの男の影響かな、エスティマと言ったか」

「かもしれません、あの人を見習って最近は前向きに生きてます。お先真っ暗という程絶望して生きてるわけでもありませんしね。
さて」

 左手の小指が、エンターキーを強く叩いた。それと同時に、多量の資料が多く表示され、
その中にはエスティマwithヴォルケンズによって制圧されたラボのデータが事細かに表示されていた。
死んだ脳が収まる培養槽が収まっていた。

「それでは質疑応答を始めます。……の前に答えてもらいますよ。僕の、過去を」

ずいと、気持ちの上で迫る。

「そう言うと思ったよ。だが残念だな。買ったアイスを口付ける事無く落として
しまったのと、今の状況は同義だよ」

容易にかわされてしまう。

「相変わらずもったいぶるのが好きですね。どういう意味ですか」

「簡単だよ。君の記憶の鍵は、私が捕縛された際に全て失われたんだ、もう二度と、君が過去の記憶を取り戻すことも無い。
無論、私も知ることはできないがね。君はあの男のお陰で私が捕えられ、
得をしたつもりだろうがあの男によって記憶までも奪われたんだよ」

「…………」

 エスティマがいたからスカリエッティは捕えられエスティマがいたから、
クーパーは記憶を知る術を失った。それは、悲劇でしかない。と取るかどうかは人による。
別段、クーパーは落胆してもいなかった。

「そう、ですか」

「ほう?」

 それでも、大きなため息を一つだけ落とした。
顔を上げる。

「もう一度確認します。
記憶を取り戻す術はないんですね」

「ああ、ないとも。おかしいな、君は絶望しないのかい?」

 眉を潜めた。二人ともだ。

「あのですね。記憶が無いといっても、僕は僕ですし、不便はありません。たとえ記憶が戻らないとしても、貴方を牢に
入れておけるほうが100倍いいです。むしろエスティマさんには、感謝しますよ。あの人がいなければ貴方をこの先、
捕まえられるかどうかも解りませんし、僕の人生はきっと、引っ掻き回されっぱなしです。怨んでいません」

 それだけ言うと、低く笑い続けるスカリエッティを尻目に仕事上の質問を開始する。一時間弱それを続けると、
今日はこれで終わりと、クーパーは立ち上がった。そこで問われた。

「君はこれからどうするんだい?」

淡白に答えた。

「未定ですよ。それじゃ、失礼します」

 そのまま、廊下を歩き始めた。振り返る事無く、そのまま軌道拘置所を後した。
転送ポートでクラナガンに戻ると暖かな日差しに迎えられ吐息を落とした。
眩しさにやられ眼がくらむ。手で日差しを遮り、眼を細めた。

「……」

 記憶が戻らないことは残念だが、それはそれこれはこれ。今の自分はそれほど嫌いではないし
過去の自分が世間に知られていない以上、重犯罪者でもないし、大丈夫だろうと楽観的思考を維持した。

 一つ。吐息を落として歩き始める。クラナガンの人ごみに紛れ、本局に戻ろうと別の転送ポートへと向かう。
途中の道程で、見知る顔が一人いた。ブルーの海の制服を着たウェンディだった。肩には黒猫が乗っている。

 クーパーが近づくと、飛び移る。

「うぃっス」

 毎度恒例のご挨拶だった。

「お疲れ様、どうしたの?」

 疑問をかもしながらも、二人は並んで歩き始める。クーパーの知る限りでは、今日のウェンディはフェイト付の筈だ。
そう、そう。あの事件の終結後、フェイトはウェンディを引っ張り暫定的に補佐官として扱っている。フェイト曰く、
その方がもう一人が喜ぶから。と言っていた。

 アルフがニヤニヤしていたのは、どこをどう見ても間違いでは、ないと思う。話を戻そう。
問いかけに対し、いつも通りの笑顔が広がった。

「いやぁ、地上本部に用があったから本局からこっちに来ただけっスよ。それよりもクリボー、
顔色悪いっスよ、またドクターにいじめられたんスか?」

「おかげさまで、あの人との会話は堪えるよ」

 やれ、やれと肩を竦めてみせる。どうあっても、スカリエッティは常人ではない。
そんな人間と対話しようと思っても、疲れるだけだった。肩を竦めると細い指が額に伸ばされた。

鬱陶しそうに振り払う。尚額に手が伸ばされてやはり拒む。イタチゴッコだ。

「やめてよ、頼むから」

「いいじゃないっスかー」

 それでも、なんだかんだで並んで歩く。いつからだろうか?
こうした日常面にも、ウェンディがいるのが当たり前になったのは。
あの事件後からのような気もするが、それよりもずっと前からこんな感じだったような気もした。

 じゃれ合いながら、薄々、これが望んだ日常なのかとクーパーも気づいてはいた。
かけがえのないものは、酷くありふれたものでしかない。それが、あの事件同様目の前に唐突に転がってきたのだ。

 喜びを表に出すことこそ無かったが、満更でもなさそうだ。

「あ、フェイトが直帰でいいって言ってたっスよ」

 一般市民とすれ違いながら歩き行く。兎にも角にも、今日のこれからはオフだ。気が楽になる。

「そう」

 その反応が、どうやら不満だったらしい。

「反応がつーまーんーなーいーもっと期待通りの反応してくれなきゃ駄目っス。
そうだ、ご飯でもどうっスか?」

「…パス、それから僕は玩具じゃないよ」

「いいじゃないっスか」

「…絶対やだ」

「私もいやっス」

「なにそれ、やめてよ」

「いいじゃないっスか私とクリボーの仲なんだし」

「一方的な仲だよね、それ」

「類稀に見る素晴らしき相互関係って
言って欲しいっスねぇ?」

「パワーバランスがおかしいよ」

「99%私、1%クリボー」

「………それはパワーバランスじゃなくて恐怖政治っていうんだよ」

 二人で言い合いながら、リニアレールの駅に入ると電車を待つ。先と変わらぬ様相を見せている二人だった。
平日の昼間の時間なので、人の姿は疎らだ。風が吹き、クーパーの黒い髪を撫で付ける。
それをなんとなく、ウェンディは見つめていた。

「ねぇ」

「…ん?」

声をかけられ、顔と左目が動いた。

「これからクリボーはどうするんすか?」

「…どうって…………………………」

 エスティマにも、そしてスカリエッティにも問われた。だが有耶無耶になっていた事を
尚ウェンディに問われ、クーパーは窮した。今までは目標という名の壁に向かってきた、
でもこれからは? その答えは未だ出ずにいる。

「(………………)」

 左目は青空を見つめた。そして思い出してしまった。今頃、あの男はどうしているだろうか?
恋人を孕ませて帰還したあの男は、果たしてどんな今を送っているのだろう?
同僚達に、もういびられる事も無くなったのだろうか? もうそろそろ出産の時期なのだろうか?

 それとも、もう生まれているのだろうか? 考え出せば、切りが無かった。

「シカト?」

「…ああ、いや」

 少し、考えが他所へと飛んでいた。少しだけ、俯く。

「…ごめん。まだ正直、決まってない」

 青空を見つめながら眼を細めた。 

「…今までは、壁があった。それをよじ登ろうとすればよかっただけだから。
でも、今は壁が全部、無くなったんだ。これからはどうしていいか解らなくて迷ってる。記憶も戻らない。僕は、」

「私も、やりたいことはないんスよ」

「――――」

 電車がホームに入りますという報せが電子音と共に鳴り響く中、二人の影は重なっていた。
数秒の間が開く。二人が離れた時、ウェンディは微笑んだ。

「だから、退屈しのぎにクリボーの傍にいてあげるっスよどうせなら遺跡巡りとか
どうっスか? 面白くて飽きないとこなら大歓迎!」

僅かに惚けていたクーパーは、口元に笑みを浮かべた。

「……そうだね。それも、いいかもしれない」

「お、珍しく乗り気」

 早速、ノリノリのウェンディ。クーパーが口を開いた時電車がホームに入ってきた。
言葉は騒音に掻き消された。が、眼を丸くしつつしっかりと聞いているのだった。

「も、もう一回言って欲しいっス!」

 そんなウェンディに、手をヒラヒラと振りながらクーパーは乗車してしまう。
追いかけるように乗り込むと、詰め寄る姿が見られた。ガラガラの座席に二人は腰掛け、二人は何かを話している。
ドアが閉ざされると電車は発車し、ホームから緩やかに出て行く。

 そして、数分の間も置かず、リニアレールの姿は見えなくなってしまった。
その数週間後、奇跡か否か。ユーノが目覚める。さて、この物語はここで終わりだが、
彼らの話はきっとこれからも続く。幸福というかけがえないのない道のりをくれたのも、

 きっと、Wonderを巻き起こす。摩訶不思議なあの男のお陰かもしれない。

 きっと、そうだ。

 あの男の背中を皆が追う。左目は、電車の窓から見える青空を一瞥する。
ああ、あんな男になれたらな、と今更ながらに思うのだった。
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