どこかから、泣き声が聞こえてきた。
それは耳障りと十分に云えて、気をささくれ立たせ、何よりも鬱陶しいと云える類の騒音だ。
鼓膜を振るわせる声に遠慮は一切なく、悲鳴という形容が正しい。

だが――その音を、八神はやては何よりも愛おしく思う。

目を開ければ、そこにはこちらに背中を向けているエスティマの姿があった。
腕には何かを抱いている。何を――ああそうか、とはやては理解した。
この泣き声は、あの子の――

「……なんや、機嫌が悪いんかなぁ。
 いつもはパパに抱っこされたら泣き止むやろ」

「ああ、おはよ、はやて。
 そうなんだけど、なんだか今日のお姫様は機嫌が悪くてさ。
 オムツは変えたし……もしかしたら、おっぱいかも」

「ん、そかそか」

おいでー、とエスティマを手招くと、旦那は困った顔をしながら歩み寄ってくる。
その腕に抱かれた子を、壊れ物を扱うような手つきでそっとはやてに手渡すと、彼は疲れたような満足したような吐息を零した。

はやては服をたくし上げるとパットを外して、そっと胸を子の口に近付ける。
何かを求めるように伸ばされた小さな手が乳房に触れ、小さな小さな口が彼女の乳首をはむ。

それにくすぐったさを覚えながら、はやてはじっと立ち尽くしているエスティマへと視線を流した。
やや意地悪な風に瞳を細める彼女。

「んふふ、ハニーもおっぱい飲むかー?」

「昨日十分もらったから大丈夫でござい」

「むぅ、ここ最近、恥じらいがのうなって寂しいなー。
 お約束やんかー、パパさんがおっぱい飲みたがるの」

「どのお約束だよ」

「ん? ひよこクラブに書いてあったで?」

「……あの雑誌、そんなこと書いてあったのかっ」

一人で頭を抱えるエスティマ。それをはやては、くすくすと笑う。
笑いつつ、ちうちうとおっぱいを吸い続ける子に視線を移した。
栗色の髪にやや白い肌。金髪じゃないのが少し残念、とはやては思う。
しかし今は閉じられている瞳は朱く、ちゃんと父親の面影が残っている。
それがはやてには、たまらなく嬉しかった。
この子の顔を見る度に、自分とエスティマの間に生まれた子だと強く意識できるからだ。

「おっぱい飲んだら、今度は昼寝かな?」

「せやね。良く寝るからなぁ」

「じゃあ俺も一緒になって昼寝するかな」

「じゃあ私もー」

「……はやて、今までずっと寝てただろ?」

「そうやけど、やっぱりハニーと私とこの子の三人で寝たいやんか。
 危ないから川の字はまだ無理やけどな」

「……川の字で寝られるまで、あとどれぐらいかな」

「どうやろうなー、楽しみや」

云って、はやては自然と頬が笑んでいることに気付く。
そのはやてと同じように、エスティマもまた笑っていた。
特に何があるわけでもない時間。この三人で過ごす時間。

それは何より、はやてにとって価値のある時間であり、これさえあれば、と思えるほどに掛け替えのない居場所である。
故に、彼女は願う。
この時間がいつまでも続きますように。
何も起きずに、この子と、エスティマの三人でずっと生きてゆけますように。

それは絶対に幸福だから。何があっても変わらない、祝福された刻だから。

この時間が続けば良い。そう願うはやては、この夢が闇の書の生み出した物だと気付いてはいない。
なぜならばこれは、彼女が望み、諦めた、真性の意味での夢だから。

彼女が自力でこの夢から覚めることは有り得ない。
それは己の渇望を否定する形となるが故に、絶対に有り得ない。

……もうはやては、諦めてしまっている。
だからこそあんな書き置きを残して出てきたのだ。
エスティマを残して、せめて一人でも幸せになって、と。
……嘘だ。彼に幸せになんてなって欲しくない。地雷女と云われるのかもしれないが、彼を幸せにするのは自分の役目だった。
幸せにして、幸せにされて――しかしその望みは闇の書によって引き裂かれてしまった。

だからこそ彼女は、唯一自分が望んだ甘い夢、ただ一つ残ったゆりかごの中でたゆたう。
最後の時まで一緒にいるからと、己の腹に宿った彼との結晶を抱いて。



















「……きたか」

一人、展望台に立ち尽くす女がいた。
彼女の名は闇の書の管制プログラム。リインフォースという名は、与えられていない。
それは取り込まれた八神はやての最初のデバイスの名であり、ⅡとEXは現在のデバイス。
故に、この管制プログラムに名前は存在しない。

その彼女は、雪空に灯った輝き――サンライトイエローの光に目を細める。
それが何か、彼女は知っている。ずっと側で見てきたのだ。
言葉を交わしたことは一度もなかったが、彼女は己の取り込んだ八神はやてと、ここに向かっているエスティマ・スクライアがずっと苦しんでいたことを知っている。
父であるエスティマは子とはやてのどちらも失いたくはないと。八神はやては、エスティマを裏切って子と心中するかを。

そんな風に主を取り巻く両親がどんな苦痛を味わっているか理解しているからこそ、この場に彼が訪れることに疑問を抱くことはなかった。

音もなく、地に積もった雪に波紋を生み出しながらエスティマは管制プログラムと同じ目線に立つ。
そして彼女がいることがどういう意味を持つのかを、理解したのだろう。
ギッ、と歯を噛み鳴らし、激痛を堪えるように、彼は表情を歪ませた。

そして――分かっているだろうに、彼は震える唇をゆっくりと開く。

「……はやてを、返せ」

それが不可能であるということは、おそらくエスティマ本人も分かっているはずだ。
だというのに、彼は今にも泣き出しそうな顔をしながら、管制プログラムへと言葉を放つ。

「……返してくれ、はやてを。
 あいつは俺にとって、掛け替えのない、大事な女なんだ。
 頼む、奪わないでくれ……!」

「……もう、無理です。分かっているのでしょう?」

引き裂くような言葉を、管制プログラムはエスティマへと叩き付けた。
甘い言葉など無意味。同情の言葉ですら価値がない。
どのように言葉を労しても、彼の望みを叶えることはできないと、管制プログラムは分かっている。

「……現在、はやて様は私の中で主と共に夢を見ています。
 本来ならば夢ではなく、甘受できるはずだった現実を。
 エスティマ様、どうか、あなたもはやて様の側にいてあげて欲しい。
 こうなってしまったら、最早止める手段は存在しません。
 私の中で未来永劫、悠久に抱かれ、本来ならば得るはずだった安息に身を委ねて欲しい。
 誓います。暴走体になろうと、私は誰にも負けません。
 悲劇ではあっても、最大の被害者であるあなたたちには夢の中で果てて欲しい」

「……ふざけろ」

管制プログラムの言葉に続いて吐き出された声色は、酷く沈んでいた。
それはなんなのか。おそらく、怒りが振り切れたのだろうと、彼女は思う。
怒りや悲しみ、そういったすべての感情を内包した瞳を向けてくるエスティマからは、悲壮な覚悟が見て取れる。

「……夜天の書、俺はさ。
 ただ、はやてと幸せになりたかったんだ。
 けどそれは夢の中でなんかじゃない。俺たちだけじゃなくて、皆と一緒に笑い合える時間を追い求めてた。
 ……俺はまだそれを、諦めていない」

「……そうですか」

残念です、と管制プログラムは頭を振る。
どうにもならない。彼がそう云うであろうことは、彼女も分かっていた。
エスティマ・スクライアがどういう人間かは、短い間ではあったものの分かっているつもりだ。
実に彼らしい答えだと思うと同時に、微かな痛みが胸に宿る。

「……ならば私は、主とはやて様の希望を叶えるためにあなたを取り込みます。
 戦いたければどうぞ。逃がしません。溶けて消えよ。私を構築する断片と化しながら、永劫覚めない夢の中で彷徨うと良い」

敢えて挑発を飛ばしながら、管制プログラムは転送魔法を展開する。
魔力光の残滓に包まれる彼女に対し、ずっとエスティマは視線を向けていた。
恨む如く睨むわけではなく、弾劾するが如く怒りを向けるではなく。
ただただ冷酷なまでの決意を瞳に湛え、赫炎の瞳は冷え切っていた。















「…エスティマさん」

ようやく辿り着いた展望台には、ただ一人エスティマの姿があった。
彼は何をするわけでもなく、じっと宙に浮かんで佇んでいる。
視線が向けられているのは一体どこなのか。剥き身の刃じみた鋭さ――鋭くはあるものの横から殴られれば折れてしまいそうな脆さを、クーパーは印象として抱いてしまう。

「…見付かりましたか?」

「……ああ。もう、手遅れだったよ」

「…………そう、ですか」

それ以外の言葉を向けることができず、クーパーは唇を噛み締める。
手遅れ、と彼は云った。それはつまり、闇の書が収集を終えてしまったということなのだろう。
どうやって、とは思わない。少し考えれば、この世界のどこに魔力があったかなんて気づける。
おそらくは、八神はやてが己のリンカーコアを差し出したのだろう。
もしそれが自分自身の手で行ったことならば――目の前にいるエスティマは、ある意味裏切られたことになる。

そんな彼がどんな心境でいるのかなど、クーパーは語れない。
言葉にもできないし、もし行動で表すのならば八つ当たりでしか発散できないような、やるせない何かだろう。

「イケメンさん、どうするんっスか?」

クーパーが話を進めないからか、彼の背後にいるウェンディが口を開いた。
それは何よりも聞く必要があり、しかし、どうしても問うことを躊躇う質問だ。
おそらくウェンディは、クーパーにその役をやらせないように気遣ってくれたのか。
そんなことを、クーパーは思った。なんだかんだで、彼女は心優しい女の子なのだと知っているから。

「……まだ、手はある」

「どんな?」

「闇の書の防御プログラムごと管制プログラムを機能停止状態に陥れ、闇の書を構築しているデータを手動で改竄する。
 ソースはリインⅡを使って……」

そう呟くエスティマの言葉は、徐々に小さくなって行った。
おそらく、彼本人も自信がないのだろう。その方法が果たして正しいのか、ということに。
そして――そんなことが可能であるかどうかも、彼自身には分からないのだ。
今度は改竄出来るか否かではなく、防御プログラムを完全停止状態に追いやることができるか否かという点が。

アルカンシェルで消し飛ばしてしまっては駄目だ。そうすれば転生機能が発動し、また不毛な追いかけっこが始まることになる。
それに、そんなことをすれば闇の書へと取り込まれたはやてや主である子供がどうなるかなど、言わずもがな。

人の手で世界を破滅させうるロストロギアを破壊することなど可能なのか?
答えは否。断じて否。エスティマはご都合主義の化身ではない。常軌を逸した力を手にしているとは云っても、未だ人の範疇に留まっている。

だが――

「……命を賭けてでも、俺ははやてを救う」

そう、彼は呟く。
それは今までのように命を軽んじた故の発言ではない。
それだけの価値がある。そうしなければならないと彼は決め付けている。

……そんなエスティマを、クーパーは黙って見ていることなどできなかった。
皆、いなくなる。それはここではない何処か――もしかしたら訪れたかもしれない終末に、似ているからか。
クーパーがそれを知っているというわけではない。しかし、悲劇を忌避するのは万人にとっての常識だ。
彼もまた、斜に構えている小僧ではあるものの、不幸を心の底から嫌っているという点では真っ当だった。

「…諦めましょう、エスティマさん。
 良いじゃないですか、もう。どうにもできないことだって世の中にはあるんです。
 それが分からないあなたじゃないでしょう?
 ……八神さんだって、それを、望んでいると思います」

最後の一節を口にした瞬間、クーパーは自己嫌悪で死にたくなった。
嘘だ。八神はやてが望んでいることは、確かにエスティマ・スクライアの幸せであったと思う。
しかしそれは、彼女とエスティマがセットになって紡いでゆく幸福だった。
その望みが絶たれた今、彼女が何を考えているかなど分からない。だというのに知った風なことを云って彼に諦めろと囁く自分はなんなのだ。

おそらく――と思う。
悲しみはするだろうが、自分のためにエスティマが死んでくれるのならば、八神はやては喜ぶだろう。
大分頭の悪い理論ではある。否、理論などではなく感情論か。
何よりも大事だと思っているから、エスティマは命を賭ける。
無論、エスティマが死ねば悲しむだろう。どうしてそんなことを、と叫びもするだろう。
けれど――クーパーは、知っているから。

八神はやてとエスティマ・スクライアがどれだけ好き合って愛を育んでいたのか見ていたから。
その愛が音を立てて砕け散り、二人がどれだけ苦しんでいるのかも知っているから。
コインの裏表をひっくるめて見続けていたからこそ、彼らがどれだけの絆で繋がっているのかクーパーは理解している。

しかしそれでも、クーパーは言葉を続ける。

「…もう、良いじゃないですか。
 八神さんがいなくなったって、いつかは忘れます。
 苦しかったこととして記憶に残るかもしれないけど、それでも、いつかは笑えますよ。
 きっと、八神さんだって……」

そう望んでいます。そう続くはずだった言葉を、今度こそクーパーは口に出来なかった。
そんなクーパーに何を見たのか、瞳に籠もっていた決意に僅かな穏やかさが滲む。
まるで弟を見るかのような目付きを、彼はクーパーへと向けた。

「分かってる。きっと、そうなんだろうさ。
 はやてがいなくても、俺が欲した温もりは残っている。そして、いつかはそこに埋没するのだろうと思う。
 ……けど、嫌なんだ。
 はやてがいないのに、笑いたくなんてないんだ。
 彼女を過去に追いやって幸せそうに笑むだなんてこと、したくない。
 ……ずっと一緒にいるって、約束したからさ。
 ロマンチストだって笑っても良いよ。それでも俺は、これがただ一つの真実だって思う。
 ……後は、頼むよ。悪いけど、俺が失敗したらアルカンシェルを撃ち込んでくれ。
 それじゃ」

エスティマの足下にミッドチルダ式魔法陣が展開する。
雪が舞い降りる中でその光はヴェールのように大気を撫でて、光の粒子を残しながら、彼は消えた。
おそらくは闇の書の元へと向かったのだろう。今までクーパーと会話をしていた時間は、闇の書の暴走体が発現するまでの時間を待っていたのかもしれない。

……そんなことは、どうでも良かった。
クーパーは爪が食い込み、皮膚が破れるのにも構わず手を握り締める。
小さな朱色の斑点が、雪原へと落下した。
じわりと広がる赤色はまるで涙のようで、クーパーの胸中そのものとも云えた。

「…ねぇウェンディ、どうしてだろうね」

「何がっスか?」

「…僕は、エスティマさんの気持ちなんか分からないよ。
 八神さんが大事なら、子供を殺せば良いって思った。
 それが辛いって分かっているけど、さ。
 好きな人のために命を投げ出すことが、愛なのかな?
 確かにそういう形も、あるんだと思うよ。
 けど、僕は……」

「……んー、アタシはエスティマさんの気持ち、分からなくもないっスけどね。
 クーパーが死にそうだったら、庇うかもしれない。
 ま、実際にそんな状況になってみないと分からないっスけど」

あはは、と照れた風にウェンディは笑う。
そう、なのだろうか。もしウェンディが死にそうになったら、自分も彼女を庇おうとするのだろうか。
……する、と思う。ウェンディが云ったように、その時がこなければ分からないけれど。

「けどあの人、蝋燭か花火みたいな人っスよね。
 ドクターがいつだったか、云ってたっす。
 人の人生をロケットに例えるなら、遠くまで飛ぶためにはたくさんの燃料を一気に燃やさなければならないって。
 あの人は、辿り着きたい星があまりにも遠いから、命って燃料を限界まで燃やすつもりなんスよ。
 辿り着けないかもしれないと分かっていても」

そこまで云って、ねぇクーパー、とウェンディは声を放つ。
クーパーは彼女へと視線を向けないまま、ただ雪原へと視線を落としていた。

「クーパーは、あの人が望んだ星に届いて欲しいと願って、手助けするっスか?
 それとも、漂流した残骸を拾うっスか?」

「…僕は」

クーパーは言葉に詰まってしまう。
もし助太刀に行けば、アースラの到着は遅れてアルカンシェルで闇の書の排除が不可能なレベルにまで暴走体が膨らむかもしれない。
もし助太刀に行かないのならば、ギリギリでエスティマが闇の書に負けたとしても手を貸すことができない。

…僕は。
胸中で、クーパーは己に問いかける。
どうすれば良いのか。それに明確な答えは出ない。
アルカンシェルで吹き飛ばすのがクレーバーな回答なのだと、分かっていても。




















眼前に広がる光景を、エスティマはただ静かに見下ろした。
地上に舞い降りた管制プログラムは、現れたエスティマを見上げている。
その彼女を中心として広がるのは、マグマの如く業火で溶け出した地面。立ち上る火柱はプロミネンスのように踊っている。
その合間に覗く黒い染みは、闇の書の防御プログラムだろう。もう、それが完全に起動するまで時間はない。
ダヴィデとシビラの予言の如く。その形容が相応しい地獄を舞台に、主役は上がった。

エスティマはSeven Starsを握り締めながら、音もなく目を閉じる。
そして自分とユニゾンしているリインⅡ、今の手に握られているSeven Starsへ、同時に念話を飛ばした。

『分かっているな、お前たち。
 俺らが防御プログラムに単騎で対抗するには――』

『承知の上です、旦那様』

『私たちの全力全開……ですね。
 リインも分かっています。はやてちゃんを助けるためなら、私も』

ふ、とエスティマは口の端を持ち上げる。
それは自嘲であり、また、運命を共にしてくれるデバイスたちへの礼でもあった。

そして――エスティマは、瞳を開く。
燃えさかる朱色の瞳は、眼下に広がる焔よりも熱く、静かに燃えている。
己に課すことはただ一つ。はやてを救うために、ただ破壊を。
今まで、己が戦うための機械でしかない云われる度にそれを否定してきたエスティマだが――しかしこの時、はやてを助けるためにエスティマはそれを受け入れる。

レリックウェポン・プロト。
未だかつて、解放したことのない最終手段を――

「レリックコア、解放」

『リミットブレイク――エグゼリオ』

瞬間、白金のハルバードがその身を爆ぜた。
カウリングが一瞬でパージされ、戦斧の形を取っていた流体金属がうねり、触手のように変貌する。
その先端。針金よりも尚鋭い、刃物同然のデバイスが――エスティマの左腕へと突き刺さった。
ギ、と苦悶の声をエスティマが上げるも、Seven Starsは頓着しない。主人の命によって彼女はこの形態へと姿を変えたのだ。
そして、主人が今この瞬間、何をしてでも力が欲しいと願うから――

皮を突き破り、肉を引き裂き、骨を割り砕いてSeven Starsがエスティマの体を浸食する。
部分的な戦闘機人である左腕。フレームに設けられたジョイントへと金色の触手は潜り込んで、主人のその身を重ねていった。

激痛に支配され視界が赤一色に染まるエスティマ。
そんな状態である彼の脳裏には、痛みに対する絶叫以外に、一つの怒りが渦を巻いていた。

それは、この期に及んでこんな手段しか取れなかった自分自身に対してだ。

取捨選択をしろと云われた。はやてを助けるためには子供を殺すしかなかった。
だのに自分はそれをせず、最終的にはやて一人に悲しみをすべて背負わせてしまって――

壁があれば壊すことしかできないくせに、それさえできずにいる無能。
お前はなんだ。なんなのだ。幸せだなんだと吠える前に、まずやることがあったはずだ。
はやてを失いたくなければ、子供を殺して傷を舐め合えば良かった――

けれど、それだけはしたくなかった。
俺は皆と笑い合っていたかったんだ。
好きな女とずっと一緒に歩みたかったんだ。

『モードE――』

許してくれ、はやて。許してくれ、まだ名前も授けていない我が子。

ワガママだって分かってる。
けれど俺は、どうしてもお前たちのことを諦められないんだ――

『――Ending』

変形が終わる。完全にエスティマの腕と融合したSeven Stars。
その上からモードBのカウリングが覆い被さり、エスティマの左腕は巨大な砲口と化す。
それはまるで凶悪な顎を開いた龍の如く。砲口の内部では、収束された山吹色の光が驚異的な速度で収束、回転を開始していた。

エスティマが変貌した部分はそれだけではない。最も顕著なのは左腕だが、彼の背中からもSeven Starsは主の命を食い破る刃を生やしていた。
体内に潜り込み、突き破って生やされた金色の翼。だがそれに荘厳さは微塵もなく、付着した血液が鈍色に剣呑な輝きを付加し、末期的な様相を見せていた。

――リミットブレイク・エグゼリオ。

これは、スカリエッティによって生み出されたレリックウェポン・プロト、それ専用の戦闘形態である。
デバイスと術者を生体レベルで融合することにより、魔力をデバイスへと伝達するタイムラグを限りなくゼロにする。
そして武器という性質上、どうしてもサイズには限界のあるそれを、人体と融合することで――人そのものを殺戮兵器に変貌させることで、武器そのものを体の一部とする。

だがこの変形は、麻酔無しで体を引き裂かれるのと同等の激痛を術者へともたらす悪意ある形態。
あくまで試作機でしかないエスティマに全力を出させ、そのデータを収集して次世代へと生かすべくスカリエッティが作り上げた狂気そのものだ。

しかし身体を悪魔じみた姿に作り替えようとも、エスティマの心に宿った決意は微塵も揺るがない。
むしろ上等だと。痛みを極大の闘志に転化して、今にも出現しようとしている暴走体、それの内包された黒い球体を睨み付ける。

そして――

それは産声か、歓喜の声か。
大気を薙ぎ払う咆吼と共に、暴走体は姿を現した。
その姿をどう形容すれば良いのだろうか。獣のようでもあるし、人のようでもある。
龍のような鱗があり、魚のような鰭を持ち、蛇のように蠢いている。
咆吼を上げた口は猛獣そのもので、しかし、血色の瞳には確かな知性が宿っているようでもあった。

その形容しがたい何か。狂気に触れた画家が書き殴った不定形の存在を、しかしエスティマは一笑に付す。

「……滅びろ」

呟き、腕を持ち上げた瞬間に業火が砲口から吐き出される。
希少技能を発動してもいないというのに大気の壁を突破したそれは、炸裂した魔力をまき散らしていとも容易く障壁の一つを吹き飛ばした。
敵の存在に気付いたのだろう。地面を突き破った触手、その先端に備え付けられた砲台が一斉にエスティマへと光を向ける。
だが――

網の目のように吹き荒ぶ砲撃の嵐を、エスティマは慣性を無視した機動で避け、一瞬で暴走体との距離を詰めた。
そして――右の掌を割いて現れた極薄の刃、呼び出されて合致したカウリング、本来ならばモードDと呼ばれる刃を力任せに振るう。
瞬間、一拍遅れて刃は硝子のように砕け散った。だが割り砕かれたのはエスティマの武器、否、身体だけではなく、第二障壁もだ。

次いで、ゴツリ、と重い音が上がる。
触手が狙いを正す時を待たず、エスティマは第三障壁へと己の左腕、その砲口を押し付ける。
放たれる業火はエスティマの全身を灼きながらも間違いなく第三障壁を吹き飛ばして――

振り切った右腕、左腕に続いて、今度は蹴りを。
音速を超えた速度で振るわれたそれは、障壁をたたき割ると共に鈍い音を上げて肉片へと変貌――しない。
骨を割り砕いて姿を見せたSeven Starsが、肉と神経を繋ぎ合わせてまだ戦えると主張する。

無論、そのような所行を行ってエスティマが無事であるわけがない。
全身を蹂躙され、中で蠢く刃。砲撃の余熱で肉は焼かれ、脂が唇に張り付く。
既に流血は全身から起きており、遠からず出血は限界に達するだろう。
それでも今この瞬間生きながらえているのは、リインⅡが治癒魔法を使い驚異的な速度で傷を治しているからだ。

ともあれ、エスティマは四層構造になっているバリアを踏破した。
出現からこの瞬間まで、まだ五秒と経っていない。おそらく歴代の防御プログラムを破壊した者の中でもレコードを記録している。
が、彼がそれを誇ることはない。この程度では駄目なのだ。
バリアを破壊しても、今度は闇の書666頁に蓄積された魔力、それで構築されている防御プログラムを破壊しなければならないから。
難易度で云えば、なのはたちが闇の書を破壊した時よりも数段上だ。あれは一瞬の隙を作り出し核を抉り出せばそれで良かった。
しかし今のエスティマは、闇の書を全壊一歩手前の状態にまで追い詰めて機能を停止させなければならないのだ。
それがどれだけ荒唐無稽かエスティマも分かっている。
それでも立ち向かうのは、はやてを、我が子を、助けないといけないから――

――己、させるか。
エスティマの意思に呼応するかの如く、防御プログラムは絶叫を上げる。
それは聞く者の正気を揺さぶる音と化し、大気を奈落の底へと叩き落とす地獄の鐘だ。
音は物理的な破壊力を伴って、エスティマの全身を震わせる。バリアジャケットが軋み、頭蓋が揺れる。

だが――

「……喚くな」

『――Zero Shift/Reverse』

小細工を弄するならばこちらも、と。
エスティマは己の保有する希少技能、その応用形態を発現する。
その効果とは、名称そのままだ。本来のものがエスティマの活動する位相を限りなくゼロへと近付けるのならば――

「――――――!」

このリバースは、エスティマが得る加速の恩恵、それと同率の遅滞を強引に敵へと押し付ける。
結果、どうなるかは云うまでもない。
防御プログラムはその行動を大きく阻害される。それは動きだけではなく思考、反応、挙動、魔力運用の四点を。
そして致命的なことに、この防御プログラムに限れば再生能力までもを。

だがしかし、通常ならば人に対して使用する技能を次元航行艦並のサイズを誇る敵に使用するのは無茶がある。
時間という絶対法則で編まれた鎖を、防御プログラムはその巨体にものを云わせて食い破ろうとしていた。

だが、エスティマもそれは分かっている。分かっていながら、莫大な魔力にものを云わせて防御プログラムを押さえ付ける。
これは我慢比べだ。希少技能が切れるのが先か、破壊し尽くすのが先か。
欠片も残さず駆逐すれば、如何な再生能力を持っていようと――

「ああぁぁぁぁぁああああ……――!!」

血を吐き、毛細血管から吹き出た体液が血流となって迸る。
悪魔と云えば悪魔だろう、今の彼の姿は。
血に塗れ、鋼に身体を浸食されて、人と云うべきなのかも怪しい。
だが、その心に宿した感情は愛そのものだ。

血風を纏いながら、エスティマは揺らぐ意識と戦い、魔力を振り絞って左腕を翳す。
集う山吹色の閃光を叩き付けて、絶対に助け出すと業火に己を晒しながら。












「――えっ?」

ザ、と耳障りな音と共に、はやてを取り巻いていた世界がノイズに染まった。
何が――と思った瞬間、彼女はすべてを思い出す。
自分が何をして、どうしてこの事態が生まれていたのか。
そして、甘い夢が何故終わりを告げたのか――

「……エスティ」

彼の名を呟き、はやては外で戦っている彼を強く意識する。
もう防御プログラムにははやてに甘い夢を見せている余裕がないのだろう。
彼が、そこまで闇の書を追い詰めている。

それはおそらく、賞賛されるべきことだ。人の分を超越しなければ到達し得ない偉業に違いはない。
だが――

「……やめ、て」

今、闇の書と深く繋がっているからだろうか。
外で戦うエスティマのことが、はやてには手に取るように分かってしまった。
綺麗な顔は血に塗れている。大好きだった広い背中からは刃が突き出て、はやてを抱きしめてくれた腕は凶器に変貌していた。
愛を囁いてくれた口からは絶叫が絶え間なく放たれて、優しかった瞳は度を超えた痛みによって狂気に触れている。

……お願い、止めて。そんなにボロボロになる必要なんかないのに。
あなたを裏切ったのは私。身勝手なことを云って、悲しみを乗り越えようとは思わなかったから。
だから死ぬべきなのは私の方で、あなたには笑っていて欲しいの。

だからお願い――そんな風に、泣きそうな顔で戦わないで。
諦めてよ。格好悪くても良いから。助けようとしてくれただけで、私は十分だから。

「……あかんよ。こんなん続けたら、死んでまう。
 エスティにだけは私、死んで欲しくなかったのに……!」

だが、その叫びは彼に届かない。
一度は諦めたのだから、宗旨替えは許さないとでも云うように、闇の書の闇は彼女を抱きしめている。
仄暗く冷たい奈落の底から放たれる声は、届かない――













その絶叫を、しかし聞いている者がいた。
管制プログラムと呼ばれる彼女。リインフォースと名付けられたかもしれない女は、八神はやての絶叫に涙を流す。
耳を閉じても胎児を介して深く繋がった彼女の嘆きは、女の胸を締め付ける。
どうにもならないのだ。その絶望で染まった心に、訴えかけてくる。
外では己の主、その父親が妻と子を助けるべく文字通り命を削っている。
ご都合主義はまかり通らない。人の身で単身防御プログラムと渡り合うことは、死を意味している。
だが、人一人の命を賭けても届くかどうか。それは定かではない。

定かではない、が――

「……主、我が主」

その声を聞き分ける知能を、胎児が有しているとは思っていない。
それでも女は呟かずにはいられなかった。
命を賭して闇の書に挑む者が、今までの歴史の中でいなかったわけではない。
しかし今回ばかりはあんまりだ。妻と娘の両方を奪われる彼の嘆きは胸に迫り、決して諦めようとしない意思はこちらの心を動かそうとする。

「……あなたの父上が、命を削っています。
 あなたの母上が、泣いています。
 お願いです、主よ。どうか、私の願いを聞き届けて欲しい。
 この二人を助けて欲しいのです。
 あなたに私の声が届いているかは、分かりません。
 けれど命の息吹は確かに在ります。故に、奇跡を祈らせてください。
 どうか――」














「――――――――ッッッッ!!」

そして、遂に。
紙一重で保たれていたエスティマの優性は、希少技能が打ち破られたことで一気に傾く。
後一歩で塵と化していただろう防御プログラムは一気にその身を修復し、地面を割り砕いて現れた砲撃が上空のエスティマを撃ち落とそうと殺到する。
それを次々に避けながらも、しかし、エスティマの動きからは精彩が欠けていた。

体力、魔力、共に限界が近い。
まだ戦えはするものの、一撃一撃に死力を込めなければ意識を浚われそうになる。
絶え間なく激痛を発する身体は熱を持ち、内側から溶け出してしまいそうだった。
思考はとうの昔に崩壊し、今はただ眼前の敵を打ち倒すことしか頭にない。

だが、それでも、

「ギ、が……ッ!」

デバイスと融合した左腕、残った人である部分を焼き尽くしながらエスティマは砲口を防御プログラムに向ける。
放たれたサンライトイエローの閃光は溶断するように防御プログラムを吹き飛ばし、砲撃の余波で敵の上半身は吹き飛ばされる。
だがビデオの逆回しのように防御プログラムは即座に再構成を行い、徒労という概念を知らないかのようにひたすら反撃の砲撃を撃ち出してきた。
やはりエスティマはその光の乱舞を回避し続ける。だがしかし、直接的なダメージを入れてはいないといえど、防御プログラムの反抗は確かな消耗をエスティマに与えている。

紙一重の回避行動を取る度にエスティマの精神力はごっそりと削れてゆく。
如何にデバイスたちの補助があると云っても、回避行動を取るのは彼自身だ。
獣のように直感を駆使しながら、掠る光条にバリアジャケットを灼かれながらも、彼は一陣の風となって尚も対抗する。

愛が人を狂気に走らせるのならば、今のエスティマが正にソレだった。
もう何もいらない。はやてを助けられれば、あの子を救うことができるならばそれで良い。
確かに、はやてとは幸せになりたかった。ずっと一緒と約束した。
けれどそれが無理なら――せめてできることは一緒に死ぬか、命を投げ捨てて彼女を助け出す他ない。

ああ、死にたくない。まだ生きていたい。
けれどこの命が、掛け替えのない日溜まりを生み出す礎になるのだとしたら――それで、良い。

「ガ……!」

血を吐き出し、エスティマは右腕をもSeven Starsに明け渡す。
内側から主人の肉体を食い破りフレームを形成すると、カウリングが合致して右腕をも砲口へと変貌させる。
ごめん、もう君を抱きしめることはできない――そんな場違いな謝罪を、はやてに向けて。

山吹色の極光が、エスティマの両腕から吐き出される。
暴力の奔流はかつてないほどまでに、高町なのはの砲撃すらも凌駕した一撃を防御プログラムに炸裂させる。
陽が地平線から顔を覗かせたが如く、地上は閃光に染め上げられる。
轟音が大気と大地を揺るがして、吹き荒ぶ魔力が旋風となり上空の雲を鳴動させた。

だが――それでも尚、在り続ける防御プログラムにエスティマは目を見開く。
全力だった。渾身の力を込めた一撃だった。
命を削るというならば正にそうだったし、Seven StarsもリインⅡも消耗するほどの反動があり、それは確かな手応えでもあった。
だのに、これでも届かないのか――?

その忘我の一瞬が、致命的な隙となる。
消耗した僅かな間を狙い撃つかのように、ようやく捉えたと防御プログラムの砲撃が四方から殺到する。
回避行動に移るエスティマだが、遅い。
物理破壊設定の閃光は掠っただけで背中の刃を溶かし、エスティマは大きくバランスを崩す。
迫る一撃二撃を身体を捻って避けるが、しかし、苦し紛れでしかない。
完全に体勢を崩したエスティマに、絶命必死の業火が迫り――

ブラウンの魔力光が、瞬いた。













おそらく背後では、エスティマが驚いた表情をしているのだろう。
そんなことを思いながら、ただ一つ自分の中で誇れるものである盾を展開し、迫る業火を弾いていた。
正直に云うならばキツイ。なのはの砲撃だって防ぐ自信はあるのに、闇の書の放つ光条はそれを大きく凌駕している。
軋みを上げるシールド。ひび割れ、もし防ぎきれなかったならば消し炭と化すだろうと分かっている。
防御だけならばともかく、自分じゃ戦力らしい戦力にはなれない。
それを理解しながらも、クーパーはこの場に姿を現していた。

『クー……パー……?』

名を確かめるかのように、エスティマから念話が送られてくる。
なんでここに、という意味が八割。そして、"君はクーパーだったか?" という悲しい響きが二割。
不純物を削ぎ落として一機の兵器となっている今のエスティマには、自信がないのだろう。
ただはやてのために。それしか頭に残っていないのかもしれない。

それがクーパーにはたまらなく悲しかった。
それが愛なのだろうか。愛する人のために死ねるというのは、自殺志願者の言い訳ではないのだろうか。
どうしてなの、と彼は呟く。

子供を見捨てれば良かった。だってそうだろう?
エスティマが向こう側の世界で、どれだけ人々の中心にいたのか、クーパーは知っている。
彼がいれば皆と共に笑い、彼がいなくなれば悲観に暮れた。
そこまで想われて――大事なものを失ったとしても、あなたにはまだ大事なものが残っているじゃないか。

確かに時間は残酷だ。気付いたときには遅すぎて、絶対にやり直しはきかない。
けれど同時に優しくもある。苦しくてもいつかは思い出になるじゃないか。
あなたは一人じゃないのに。一人じゃないなら、一つの悲しみよりもたくさんの幸福が傷跡を癒してくれただろうに。

――助けられなかったと、どうしょうもなかったと、不平不満をぶちまけて、それで楽になれば良かったのに。

しかし、同時に、思う。
クーパーはこの世界に戻る決断をする際、今度は僕が皆を助けると思った。
もう愚痴を口にするのは止めて、自分にできることをなして――繋がりはなくても、大切だと思える人たちを悲しませたくなかった。
そう、彼らのために、自分だってできるかどうかも分からない賭けを行ってこちらの世界に戻ってきたのだ。

――つまりそういうこと。
単純な話、クーパーにも救いたい、守りたいと思うものがあった。
そして今、エスティマは救いたい、守りたいと望む存在のために命を燃やしている。

目を、逸らしていたのかも知れない。
子供を殺すという選択がクレーバーだということは、今も信じている。
しかし、自分はそんなことをするために戻ってきた?
否だ。

そもそもからして、子供を殺すという選択は筋違いだった。
彼らの幸せを守るのならば子供を殺す必要なんてなかった。
ただ、闇の書と向き合って、戦えば良かったんだ。

だのに障害があまりにも大きすぎて、目と鼻の先に分かり易い回答があったから、それに気を惹かれていただけで。
自分が臆病者だったのか。それもと、エスティマが蛮勇だったのか。
それは、分からない。何が正しいのかは、結局の所今もクーパーは分からない。

けれど――

「あああぁ――っ!」

雄叫びを上げて、クーパーは迫る砲撃に堪え忍ぶ。
異変は自分でも理解していた。こんな頑強な盾を、自分は作り上げることなどできない。
どくりどくりと胸の内にある何かが渦を巻く。聞かされていた条件、力を引き替えに覚えるべき感情は、抱いていないはずだ。
だというのに、胸は熱く天井知らずに力が湧き出す実感がある。

何故だ――

『不満をぶちまけろよクーパー。
 黒々とした感情が溜まってるだろう?
 ちょっとばかし足りねーけど、ツケにしといてやる』

奥底から湧き上がってきた嘲笑に、口の端を釣り上げてクーパーは応じる。
ブラウンの魔力光で構築された盾、その向こう側に存在する無数の砲台を睨み付けて、更なる魔法を構築する。

「ぽんぽん主を変えるビッチが……。
 相手を選べよ、不倫はクソのすることだっ!
 八神さんをエスティマさんに返せ、図に乗るなよジャンク製品が!」

罵倒と共に炸裂した魔法は、鋼の軛。
奇しくもそれは、"本当の"お話でザフィーラが行ったことと同じ効果を生み出した。
地面を割り砕いて現れたブラウンの刃は剣山の如く生み出され、砲撃を吐き出している、これから吐き出そうとする砲台を串刺しにした。
それによって照準がズレ、業火は虚空を薙ぐだけで終わる。

「――今です、エスティマさん!」

クーパーの声に、エスティマは頷きを返す。
応酬の間に、彼は準備を終えていたようだ。
両腕に光の渦を顕現させて――彼は、血塗れの背中をクーパーへ向けて防御プログラムに突撃した。














もう背後を気にする必要はない。
何よりも頼もしい盾が、エスティマの背中を守ってくれているから。
どんな心境の変化があったのかは、流石にエスティマには分からなかった。

しかし、彼が不退転の決意を宿して助けに入ってくれたことだけは察することができ――ああ、俺だけじゃなくて皆がはやてに助かって欲しいと願ってくれるならば、と。
完全に摩耗しつつあったエスティマの精神が、崩壊寸前だった心が、精彩を取り戻す。
左の砲口に宿る業火が高速回転を行い、電気変換された魔力が紫電を散らして中を染め上げる。
そうして吐き出されたのはレーザーのような直射砲撃ではなく、一発の砲弾だった。

緩やかなカーブを描きながら落下したそれは――着弾した瞬間、高密度で圧縮されたいた魔力を解放し、破壊の大合唱を奏でると共に防御プログラムの身体、その三分の二を吹き飛ばす。
更にエスティマは、入れ替わりで右の砲口を構えた。
左で次弾をチャージしながらも定められた砲撃に手加減はなく、周囲の大気をダイヤモンドダストで彩りながら、白色の砲弾を射出する。
即座にそれが着弾した瞬間、防御プログラムの残った三分の一が完全に凍結する。絶対零度。何ものをも凍結させる温度によって動きを止めた。
結果、どうなるか。それは凍り付くなどという現象が起こるわけではない。
セルシウス度で表せば、-273.15℃。ケルビンで表せば0Kとなるその世界においては、あらゆる原子の熱振動が停止し、物体は消滅を余儀なくされる。
原子レベルで活動を止めた防御プログラムは、その巨体を維持することができず硝子のように崩壊する。

そして――

『再生が、止まった、です』

『旦那様――』

――ノイズ混じりにデバイスたちが云うように、防御プログラムは再生することを放棄していた。
吹き飛ばされた身体を寄せ集め、その巨大な体積を増やすことを諦め、己の存在と留め置くことに全機能を回しているようだ。
やるならば今。敵がこの惑星を浸食することを諦め、逃げに回った今こそ。

大気の壁を突き破って突撃し、エスティマは逃げようとする防御プログラムに砲口を向ける。
両者の間に開いていた距離は一瞬で詰められ、ほぼ零距離で逆巻く業火がぶちまけられる。
その反動で、エスティマ、防御プログラムの両者は弾け飛んだ。撃ち放った本人ですら、大きなダメージを負っている。
その馬鹿げた自傷行為。距離を置いて砲撃を続ければ良かったと思うだろう。

だが、もうエスティマには無理なのだ。
敵が巨体であればまだ良かった。しかし今の彼は、人間とほぼ同サイズの敵を狙い撃てるだけの視力が残っていない。
デバイスたちもまた、同じであった。
度重なるダメージと度を超えた反動、電子回路を焼き尽くす魔力の奔流によってセンサーの類は軒並み死んでいる。
エスティマも、Seven Starsも、リインⅡも、稼働しているのが奇跡のような状態だ。

満身創痍を通り越して、アンデッド同然のエスティマへと防御プログラムが射撃魔法を放つ。
だがエスティマは防御も回避も選ばず、直進を。
顔面に迫ったそれを首を傾げて擦れ違い様に避け――しかし、非殺傷の弾丸は胸板へと直撃した。
リアクターパージは発動しない。そんなことをすれば体勢を崩し、防御プログラムを逃がしてしまう。
だから――リインⅡが、致命傷となるそのダメージを一身に引き受けた。

ユニゾンが解ける。
バリアジャケットを彩っていた白色の輝きは消失し、エスティマはSeven Starsと共に防御プログラムに迫った。
魔力刃が迫る。それを右腕を掲げて防ぎ、弾き飛ばした。
そして――防御プログラムの頭部を飲み込むほどに巨大な砲口が、遂に突き付けられる。

物理ダメージカット、純魔力ダメージで――

掠れる思考で、エスティマは左の砲口に魔力の輝きを灯した。
だが、防御プログラムは悪足掻きをするように、至近距離まで迫ったエスティマへと次々に触手を撃ち込む。
身体を浸食するであろうそれを、しかし、エスティマと一心同体となったSeven Starsが内側で引き裂き、駆逐する。
その際に重要な内蔵器官を修復不可能なまでに抉られ、エスティマは肉片の混じった吐血を。

しかし彼は、砲撃のチャージを止めたりはしなかった。
山吹色の輝きが迸る。すべてを飲み込むかのように、極光の瞬きによってあらゆるものを焼き尽くすように。

「――リミットブレイクッ!」

『――Ashes to Ashes 1st ignition』

砲撃が放たれた。限界を超えた一撃に、更なる超越をもたらす突破を。
それによって、防御プログラムは悲鳴を上げながらその身を削らせる。

だが、まだだ。

『――Ashes to Ashes 2nd ignition』

最早チャージを行っている暇はない。
蝋燭の見せる最後の輝き。大気圏を突破する宇宙船。消滅寸前の太陽。
あらゆる末期的な表現が似つかわしい状態で、尚も彼は死力を振り絞る。

『――Ashes to Ashes 3rd ignition』

最早全身へと浸食したSeven Starsのフレームが、閃光と共に炸裂する。
その度に、左腕――Seven Starsのコアが宿る部分からひび割れる音が上がり、酷いノイズが音声として上がった。
灰は灰に。塵へと還るが如く、その行動に絶対の価値があるとエスティマは信じている。Seven Starsもまた、同じように。

そして――

『――Dust to Dust』

四度目のリミットブレイクを発動させた瞬間、バギリ、と重い音が響き渡った。
それが何を意味しているのか、エスティマは分かっている。
しかし彼は悲哀を微塵も瞳には浮かべず、防御プログラムへと渾身の一撃を叩き込んだ。

その結果、もたらされた破壊は筆舌に尽くしがたい。
魔力ダメージではあったものの、破壊の余波は突風となって地表を薙ぎ払う。
閃光は日の光ではなく、人の生み出した人工の太陽、放射能をまき散らすそれのように。
震動は惑星そのものを揺るがすが如く、大地が鳴動という名の断末魔を上げた。















破壊という方向性ただ一つを持たされた魔力によって、汚染され尽くされた大地。
不毛のそこに、一人の男が立っている。
目には既に光が宿っていない。白濁としたそれは自らが生み出した閃光によって灼かれたのだろう。
焦点の合っていない視線を向けながら、彼は錆び付いてしまったかのように、身体を動かす。
デバイスによって全身を浸食されたの身体は、既に枯れ木同然だ。
それでも尚立っているのは、意思の力か。それとも、死しても尚、と無意識が動かしているのか。

『真っ直ぐ、進むですよ……』 

ぽつり、と小さな声が上がる。
その瞬間、彼の胸元から一冊の本がこぼれ落ちた。
元は青かっただろうハードカバーの本は、鮮血によって赤黒く変色している。
それは地面に落下して、大地に広がる黒い染みへとずぶずぶ吸収されてゆく。

男は見えていない目でそれを一瞥すると、伝えられたように踏み出した。
一歩一歩、確かめるように。間接から上がる金属の軋みは、もう泣くだけの水分の残っていない彼の泣き声のようだった。

痛い、苦しい、もう嫌だ。逃げてしまいたい。
しかし彼は、それを口に出そうとはしない。
何故なら、そんなことに価値はないから。

俺は逃げない。絶対に助けるんだ。
やっぱり俺の命を賭けなきゃ彼女は助けられなかった。
けれど、ここまでたどり着けただけで僥倖だ。

……俺、頑張ったよな?
ふと、彼は声を漏らす。漏らしたつもりになった。
実際は吐息がこぼれ落ちただけだ。声帯はとうの昔に潰れている。
そして、問いかけた相棒も完全に沈黙していた。

足を引きずり、不格好に、彼は子供の方がずっとマシに歩けるであろう姿で歩を進める。
そして、彼は辿り着いた。

「……エスティ」

涙に濡れた声が、彼を出迎える。
声を放ったのははやてだった。
彼女は管制プログラムのボディースーツに身を包み、朽ち果てる寸前の夫を出迎える。
が、彼女が呼んだ声は彼に届かない。音すらも認識できないのだ。
ずりずりと足を引きずって、彼ははやてとぶつかった。
はやては、もうどうにもならないと一目で分かるエスティマを抱き留めて、目を瞑る。
瞼の隅からは絶え間なく涙が溢れ出し、ひび割れた彼の首筋へとこぼれ落ちる。

その感触でようやくエスティマは気づけたのか。
両腕を上げてはやてを抱きしめようとし――自分の手が凶器に変貌していることを思い出して、止めた。
その代わりとでも云うように、はやてはより一層彼の身体を強く強く抱きしめる。
抱擁というには強すぎる。まるで何かを責めるように。

何故、彼女がそんなことをするのかエスティマは良く分かっている。
彼女の心を全部分かってやることなどできはしない。そんなものは幻想だ。
けれど――今、この時だけは、そんな幻想が実現しているような気がして。

闇の書は、止まったかな。だったら良いな。

「……うん、止まったよ。止まったから、もう戦わなくてええから」

……嘘吐きだなぁ、はやては。
そっか、届かなかったか。なら、まだ戦わないとな。

「……もうええやんか。
 エスティが頑張ったのはよう分かっとる。
 女冥利に尽きるわ。こんな旦那さん、他におらへんよ。
 だから、ここまででええ。
 ……ごめんなぁ。
 私、エスティが戦っとるとこ、ずっと見とった。
 けど止めることできへんで……ただ泣いてることしか」

……良いんだ、それで。
だって旦那の仕事は家族を守ることだろ?
だったらこれは当然のことで、はやてが謝ることなんて何もない。

「……馬鹿、大馬鹿っ。
 こんな、こんなこと誰も望んでへんよ!
 私、せめてエスティだけでも生きて欲しかったのに……!」

馬鹿だよな、俺。
それでもさ。俺、はやてには死んで欲しくなかったんだ。

そんな風に、お互いの言葉が届いていないというのに、まるで聞こえているように二人は言葉を紡いでゆく。
だが無慈悲にも、終わりは訪れた。
機能停止に追いやられても、無限再生機能は生きているのだろう。否、はやての言葉を信じるならば、防御プログラムは止まっていない。
はやての身を包むボディースーツから黒い染みが湧き出し、抱き合うエスティマの身体を浸食し始める。
物質を取り込んで己の養分とし、再び闇の書を再構成しようとしている。

あと一歩、足りなかった。

しかし、もうエスティマには戦う力など残っていない。
魔力は枯渇し、デバイスたちは大破した。身体は動かすだけで精一杯で、戦闘などできるはずもない。
だが、ただ一つ。
この状態で使えるただ一つの魔法が、残っている。

……Seven Stars、力を貸してくれ。
そう、エスティマは心の中で声を漏らす。
だがSeven Starsのデバイスコアは完全に砕け散り、主人の助力を行うことなどできはしない。
それでも、エスティマは魔法を行使する。
彼の足下にミッドチルダ式魔法陣が展開し、彼ら二人の頭上に、山吹色の流星群が集い始めた。

始めは小さく。しかし、この場にまき散らされた魔力を一点に集め、徐々に大きく。

この魔法、スターライトブレイカー。
高町なのはの必殺技と云っても良い魔法を、この時、見よう見まねでエスティマは発動させていた。
集束は彼女と比べてずっと甘い。だが、この場にまき散らされた魔力は闇の書666頁分に加えてエスティマのレリック、そしてクーパーのものが漂っている。
故に、完全に集めることができなくとも、十分な威力は見込めるだろう。

……これが俺の、全力全開。
己を抱きしめる柔らかな感触にどうしても名残惜しさを覚えてしまう。
この瞬間がいつまでも続けば良い。愛する女のために戦って、その腕の中で果てられるのはきっと幸福だから。
この幸せである時間が、永遠に――時よ止まれ、と。君とこの子が何よりも美しいと信じているから、俺はそれを願う。

あと一歩だ。闇の書を完全に停止させて、プログラムを書き換える。
俺はもう駄目かもしれないけど、せめて、はやてと、この子だけは――

――……。

「……エス、ティ?」

怯えが多分に含まれた声を、はやては上げる。
そっと首筋に手を触れれば、そこからはもう彼の鼓動を感じることができなくなっていた。
そして、触れた先から防御プログラムが彼の亡骸を食らっていった。
こんなにボロボロになるまで戦って、それで、最後はこんな――

「……くっ、う……なんで」

しゃくり上げながら、はやては鼻を鳴らした。
そうしている彼女自身の体も、徐々に闇の書へと再び埋没し始めている。
エスティマの尽力が、まるで無駄だったかとでも云うように。
それがどうしても許せなくて、はやては機械に埋まったエスティマの右腕へと手を重ねた。
霧散しようとしていたスターライトブレイカーの操作を継続して、消えゆく寸前だった山吹色の閃光は持ち直す。

「こんなの嫌や。なんで、こんなことになったんや……!
 私が、エスティを好きになったらあかんかったんか?
 物騒な素質を持ってたから、こんなことになったんか?
 幸せで幸せで、皆がいた時間も間違ってたんか?
 そんなの、嫌や……!」

もう誰にも届かない。側にいてくれると云ってくれた恋人は先に逝ってしまった。
ならこの祈りはどこに届く? 誰に向けて叫べば良い?
もう助けてくれる人はどこにもいない。奇跡は祈っても叶えてくれる人はいない。
こんなに頑張ったのに、エスティマが報われないだなんて、あんまりだ。

……だったらせめて、自分だけでも彼に報いてやりたい。
彼が助けようとしてくれた自分たちぐらいは生き残らないと、本当に彼のしたことが無意味になってしまうから。
だから――

「……スターライト」

鼻を鳴らして、エスティマを強く抱きしめ、彼女は詠唱を口にする。
膨れあがった魔力の固まりは、トリガーワードを紡げば炸裂するだろう。

お願い、と彼女は誰にともなく固い願いを飛ばす。
それを聞く者は誰か。誰も、いないのかもしれない。

「ブレイカー……」

力なく呟かれた声を切っ掛けに、はやての頭上に生まれた巨大なスフィアは眼下の地表を山吹色の光で染め上げる。
その光、魔力ダメージとはいえ強力な濁流に押し流されながらも、堪え忍ぼうと意識を保持する。
抱きしめたエスティマを離さないように、もう何があってもと、溶けて一緒になりそうなほど腕をしめつける。












そうして、すべてが薙ぎ払われる。
エスティマは間違いなく死に、彼と運命を共にしたデバイスたちも砕け散る。
サンライトイエローの破壊がすべてを飲み込む。

だが――果たして、彼は何もなすことができなかったのだろうか。
確かに、エスティマの力はあと一歩というところで届かなかった。
全身全霊を込めた戦いに自らの手で決着をつけることはできず、闇の書を正すソースであるリインⅡも黒い染みに取り込まれた。
Seven Starsは完全に砕け散り、その機能を停止している。
彼を助けるものは、何一つとして残っていない。
だが――

彼がずっと戦っている姿を見ている者たちはいたのだ。
八神はやてが正にそうだし、管制プログラムも立ち向かってくる彼の姿に心を打たれていた。
そして、二人の上げていた泣き声に、呼応する者は、果たしていなかったのだろうか。

『      』

それは、奇跡と云えば陳腐だし、しかし必然というわけでもなかった。
もしかしたら、ひたすらに上げられる悲鳴に苛立ちを感じたのかもしれない。
いや、違う。まだ知能と云えるものは何も持たない彼女だが、しかし、ひたすらに向けられる愛情だけは分かっていた。
父は自分と母を助けるために戦っている。母はこんな運命嫌だと泣いていた。
そして、騎士である管制プログラムは、そんな二人のことをずっと彼女に伝え続けていた。

勿論、彼女にそれをどうにかしたいという意思はない。
ただ――生きたい。生まれ落ちたい。愛してくれる人たちと会いたいと、声なき声を、形なき意思を産声のように放つことが精一杯だった。

それを、管制プログラムは主の意向であると断ずる。
やや過大解釈であると彼女も分かっているが、しかし、主の意思であることは絶対である。

故に、ここに一つの結果が生まれる。
奇跡というわけではない。
最後の最後まで足掻いた結果だ。
エスティマが膝を折っていれば、この状況が生まれることはなかった。
クーパーが助けにこなければ、やはり届かなかった。
はやてが理不尽に対して怒りを抱かなければ、"彼女"は産声を上げたいと思わなかった。
管制プログラムが絶望に塗れたままでは、"彼女"に声は届かなかった。
であればこれは、必然なのかもしれない。














山吹色の光が収まり晴れた視界を見て、八神はやては目を見開いていた。
何が――起こったのか。それが彼女には分からないのだ。
それに応えるかのように、眼前の女は小さく笑った。

その女には見覚えがあるようで、ない。
背中を覆うほどの髪は水色で、リインⅡを思わせる。
しかし、はやての知っているリインⅡはここまで大きくない。まだまだ子供と云って良かった。

着ている服もまた、見覚えがあるようでない。
白と黒の左右非対称で構成された服――バリアジャケットは、なんなのか。
リインⅡの騎士甲冑のようではあるが、管制プログラムのもののようにも見えた。

女は、朱い瞳に薄く涙を浮かべてはやての頬へと手を添える。

「……はやて様、と呼ぶべきでしょうか。
 それとも、マイスターと呼ぶべきでしょうか」

「……あんたは?」

「闇の書の管制プログラムであり、リインフォースⅡでもあります。
 ……大破し、残骸となった彼女を吸収して、管制プログラムへと彼女の構築コードを上書きし生まれた存在です、私は」

それはどういう、はやてが問いかけると、女はどこか嬉しそうに笑みを浮かべた。

「……主が、死にたくないと願ったのです。
 自分を愛してくれる父と母に会いたいと。だからここで死にたくはないと、私に望みを教えてくれました」

ですから、と彼女は足下に古代ベルカ式魔法陣を展開する。
それは、はやても良く見知ったものだった。
プログラムは守護騎士を構築するそれだ。
しかし、それが一体なんだという。

そっと、はやては下腹部に手を添える。

この子が父親に会いたいと願ったとしても、彼は既に死んでしまった。
彼の戦いは、こうして自分とこの子が生きているならば無駄ではなかったのだろう。
けれど――

そこまで考えた瞬間、はやては目を見開く。
なぜならそれは、展開された魔法陣から、はやての大好きな金糸の髪が現れたからだ。

リインⅡを取り込んで管制プログラムが新生を果たしたのと同じように、エスティマもまた、同じ理屈で。
闇の書によって取り込まれた彼は、欠損した部位をプログラムで補って再生されたのだ。

だが、そんな細かいことなどはやてには関係がない。
守護騎士と同じように、黒一色に染まった服を着た彼を、はやては見上げる。
おずおずと手を伸ばして、裾を掴むと、彼女は怯えながらも口を開いた。

「……エスティ?」

「……他の誰だって云うんだよ、はやて」

安心させるように笑むエスティマは、手を伸ばしてはやての髪を撫でる。
それが切っ掛けとなったのか、はやては決壊したかのように涙を流して彼へと抱きついた。

困った風に笑いながらも、エスティマは愛おしげに彼女を抱き留め、背中に回した手に強く力を込める。
もう離さないから、と。

そんな主人の様子を、彼の胸元に下がったアームドデバイス・Seven Starsはコアを瞬かせて祝福した。


















「……嘘だぁ。なんとかなっちゃったっスよ」

「…そうだね。嘘臭い。
 けど、これが結果だよ、ウェンディ」

エスティマたちのいる場所からやや離れたところで、クーパーとウェンディは彼らのことをじっと眺めていた。
全身が汗にまみれて、指先からは血の滲んでいるクーパー。
彼はエスティマが戦っている最中、ずっと彼の背中を守っていた。
兄の授けてくれた盾。盾の守護獣が使っていた盾。それを用いて、守り抜いた。

その結果としてエスティマが愛する人たちと再会できたことは、確かな実感として胸に響く。
誇っても良いだろう。ようやく、僕は……と、クーパーは久々に抱いた達成感に、今にも酔ってしまいそうだった。

どっしりと地面に腰を下ろして、クーパーは満足げに息を吐く。
そんなクーパーの隣に腰を下ろして、お疲れ様っス、とウェンディは彼へと笑いかけた。

そんな彼女の表情を見て、ふと、らしくないことを考える。
もしかしたら、彼らに当てられてしまったのかもしれない。
けれど仕方がない、とも思う。艱難辛苦を乗り越えて、望んだ平穏を取り替えした彼らの姿はあまりにも眩しい。
だから僕も、と。どうしても思ってしまうのだ。

あんな風に自分も、愛する人を手に入れることができるのだろうか。
愛がすべてと口にして、弱さと表裏一体の強さを持つことができるようになるのだろうか。

そうだったら良いな、と思う。そうなりたいと強く願う。

「ねぇ、クーパー」

「…ん?」

「戦いが始まる前に、云ったことっス。
 やっぱアタシ、クーパーが死にそうだったら庇うっスよ。
 庇って、それで、二人一緒に生き残れるよう足掻きたいな。
 ……なんだか、あの二人を見てると、死んで終わりって風には考えられない」

「…僕も、かな」

死に価値がない、とは思わない。
けれどそれ以上のものが生きることにはあるのだろう。
生きたいと願ったから、こうして彼らは幸せへと舞い戻ることができた。
であれば、死んで終わりだなんてあまりにも勿体ない。

死にたくない――人が抱く原初の恐怖であるそれは、きっと乗り越えるためにあるんじゃないか。
そんなことを、クーパーは思う。
だって、幸せを迎えられた彼らは、あんなにも眩しく見えるから。

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