倒れたはやてはシグナムとシャマルに連れられ、慌てふためいたヴィータが三人について行き、部屋へと下がった。
残されたエスティマとザフィーラはぶちまけられた夕食となるはずだった物を片づけ、手持ち無沙汰なままリビングで時間を過ごす。
コーヒーの一つでも入れるか。そんな考えが頭を過ぎるが、とてもそんな気分にはなれない。

風邪だろうか。だとしても唐突に倒れて嘔吐するだなんて普通ではない。
何か重い病気にかかったのだとしたら――時間が経つにつれて、悪い方へ悪い方へと思考が蝕まれてゆく。
冷静な部分が囁く。ただ倒れただけだ。貧血なのかもしれない。自分だって何度も体験したことだろう。過労でああなっても不思議じゃないのだし。

だが、その言葉を受け容れて安心するべきだというのに、一向に胸の動悸は収まらなかった。
ああ、と実感する。
彼女に何かあったら――そう考えるだけでこうも落ち着きをなくすとは。
はやてが自分にとってかけがえのない女性だと理解はしていたが、ここまではと思ってもいなかった。
実感する。しかし普段は暖かい気持ちを湧き上がらせるそれも、今は違う。
掻き立てられる不安に押し潰されることはなくとも、首筋を這い寄る形容しがたい何かを耐えるために、酷く神経を削る。

「……エスティマ」

不意に、床に伏せっているザフィーラが声を上げた。

「……ん?」

「シャマルは優秀だ。
 ミッドチルダの医療がどれだけ進んでいるのか分からないが、それでも、あれは失ってはならない主を癒すために古代ベルカの叡智を結集して造られたプログラム体。
 よほどのことがない限り、シャマルの手に負えない病や怪我はない。
 いつも傍にいたのだ。発見が遅れたということもないだろう。
 ……そう、暗い顔をするな」

「……ああ」

慰められたのだろうか。
きっとそうなのだろう、とエスティマは思う。
人間味が薄いと云っても、ないわけではない。
おそらく、今のザフィーラにとって最大限の気遣いが、今の言葉だったのだろう。

「……悪いね」

「かまわん」

尻尾を一振りして、ザフィーラは再び顔を伏せる。
その様子に小さく笑って、エスティマはじっとシグナムたちが部屋から出て来るのを待った。

そうして、どれぐらいの時間が経っただろうか。
実際のところはさほど。しかしエスティマからすると、一時間にも二時間にも感じられたのだった。

扉を開けて出て来たシャマルとシグナム。ヴィータははやてに付き添っているのだろうか。
どこか沈痛な面持ちのシャマルに嫌な予感を抱きながら、エスティマはゆっくりと口を開く。

「……はやては、どうだった?」

「それが……」

呟き、僅かな間をシャマルは置く。
十秒にも満たない時間だというのに、そのもったいつけた調子で、エスティマの脳裡には際限なく悪い予感が湧き出ていた。
が、

「おめでとうございます」

にぱっと笑みを浮かべたシャマルに、眉根を寄せてしまう。

「……何がめでたいんだよ」

はやてが倒れたんだぞ。そう続けようとしたエスティマに、

「主がご懐妊です」

シグナムが告げ、エスティマは無表情へと。

「……えっと」

ご懐妊? 要するに妊娠? 誰が? A.はやてが。
いやお前妊娠って……エロいことしないと出来ないだろ。してたよ?……そうでした。
避妊はしていた。大体二分の一の確立で。テンション上がるとそのままやっちまっていたのである。
そりゃー妊娠しない方がおかしいよねー。

「た、大変だ! 出産費用を稼がないと……!」

「……落ち着いてください。
 というか、まずそれですか気にすることは。
 取りあえず座りましょう」

呆れたように突っ込むシグナムだが、しかし、口元は彼女らしくないほどに緩んでいた。
シャマルもまた、同じように。

促されたエスティマは、どこか放心した様子でソファーに座ると、パチパチと瞬きをする。
未だ実感が湧かない。妊娠――つまりは子供ができたと云うことだろう。
喜ぶべきだと思う反面、どうにも頭がついてゆかなかった。心構えがなかったということもある。
しかし、

「……シャマル。はやてと話はできるか?」

「はい。ご気分も落ち着かれたようですから、今なら大丈夫ですよ」

「ん、分かった。ちょっと、話をしてくるよ」

再び立ち上がる。
思ったよりも浮ついているらしい。

子供。子供か。まだ見ぬ新しい生命のことを考える度に、先ほどまでの不安がプラス方向へと転化する。
やはりまだ、実感は湧かない。しかし、自分と愛する女性の間に確かな絆とでも云えるものが生まれたことは、間違いなく喜ばしい。
はやてはどんな気持ちでいるのだろう。喜んでくれてるだろうか。
そうだったら良いなと思いながら、エスティマはゆっくりとはやてのいる部屋の扉を開く。

スタンドライトのみが点いた薄暗い部屋の中には、横になったはやてと、つきそうヴィータの姿があった。
ヴィータはエスティマを見ると、察してくれたのか一言はやてに云って部屋を後にする。
擦れ違いざま、彼女には似付かわしくない、外見に不相応な柔らかな笑みを向けられた。

そして、パタリと扉が閉まる。
一歩一歩はやてに近付いて、エスティマは寝たままのはやての傍へと。

「……その、なんて云ったら良いか」

「んー、せやね。ちょっと私も驚いてるわ」

はやては布団の中から手を出して、そっと下腹部に手を添える。
その下に息づいているものを慈しむような手つきだった。

「……ねぇ、エスティマくん。
 その……な」

はやての言葉の響きに違和感を覚えて、エスティマは彼女の顔をじっと見た。
薄く照らされた彼女の表情は、晴れていると言い難い。
怯え――だろうか。予想はできるが、その感情を抱きながら彼女が何を考えているのかまでは分からなかった。

「……疎ましいとか、思ってる?」

「何が?」

「……この子」

「……なんでそんなこと」

「だって、この歳で子供って、ちょっと重いかなって……。
 それに、その……これから色んなこと、できなくなるし」

だから疎ましく感じているのではないか。
そんな風にはやては考えているのだろう。

そんな事を……と思ったエスティマだが、はやてが不安になってしまうのも仕方がないのかもしれない。
男と女の違いと云うべきか。内に命を抱いているのははやてであり、エスティマではないのだから。

「……馬鹿」

小さく呟いて、エスティマは明るさの欠けたはやての額に手を乗せる。
前髪の毛先を弄ると、そのままゆっくり髪を撫でた。

「……俺だって、はやてを縛って良いものかって不安があるよ」

「そんな! 私は、エスティマくんやったら――」

「……うん。俺も一緒。だから、不安にならないで」

髪を撫でた手を、はやての頬へと。
はやては猫のように目を細めると、鼻を啜って儚げな笑みを浮かべた。

「……あかんよ。今、そんなこと云われたら、どんな顔して良いか分からなくなってまう」

「俺もそうだ。嬉しいんだけど……なんだかな」

「……一緒やね」

「一緒だ」

「……うん、一緒。
 きっと、これが幸せってことなんやろうなぁ」

腹を押さえているのとは違う、もう一方の手を、はやてはエスティマの手を重ねる。
はやてを中心にして、子供とエスティマが一緒になっているような錯覚。
……ああ、確かに幸せだ。

まだ生まれてもいない子供と自分たちの未来を、エスティマは夢想する。
どんな風に暮らしているのだろうか。分からない。
しかし、大勢の人に囲まれて、祝福されて――きっとそれは幸せだ。
幸せに違いない。

指を絡ませて、二人は笑い合う。
微かに火照った掌は心地良く、じんわりと広がる暖かさは、そのまま胸の内を表しているようだった。














エスティマとはやての二人が部屋で語り合っている一方、リビングに集ったヴォルケンリッターたちは顔を突きあわせ、思案に暮れていた。
とは云っても、なんら難しい話をしているわけではない。
ただ己たちの主に息吹いた命について、祝福しているだけであった。

シグナムはただ黙して、新たな命が現れようと自分たちの使命は変わらないと思う。
シャマルはただ黙して、癒すべき命が増えたのだと思う。
ザフィーラはただ黙して、己が守るべき対象が増えたことを喜ぶ。
そしてヴィータは――

「……赤ちゃんか」

ぽつりと、唯一ヴォルケンリッターの中で言葉を零した。

「赤ちゃんってさ……アタシは見たことないけど、やっぱり可愛いんだろうな。
 それも、はや……主の子供だし」

はやて、と呼び捨てにしようとした瞬間、微かな痛みが胸に走り、ヴィータはそれを中断した。
主を呼び捨てなどできはしない。そう思う一方で、そうしなければならないと――そうするべきなのだと、根拠のないものが浮かび上がってくる。

そんなヴィータの内面に気付いてか気付かずか。
シグナムは生真面目な表情のまま、ゆっくりと口を開いた。

「可愛いもなにも……我らにそんなことは関係がないだろう」

「かもしれないけど……」

建前というか、自分たちの成すべき事を第一に考えるシグナムらしいと云うべきか。
迷い無く言い切られた返答ならぬ返答に、ヴィータは言葉を濁した。

「守る対象が増えようと減ろうと、我らのなすことは変わらん。
 今も昔も、そうだったろう」

「かもしれねーけど……」

自分でも言葉にできない何か――バグとも云うべき過去の記憶、その残滓を払拭しろと云うような口調に、ヴィータは言葉を濁した。
シグナムにそのつもりはないのだろう。そもそもこの中で、過去の記憶という一点に疑問を抱いている者はこの中でヴィータしかいないと云える。

それはともかくとして。
シグナムとヴィータのやりとりに一人、シャマルは苦笑する。

「シグナム。こんな時まで固いことを云わなくても良いでしょう?
 素直に喜んだら良いじゃない」

「……何を云う。
 我々はそうするべきではない。
 云っただろうシャマル。守るべきものが増えたのだ。故に、ここはより一層我らが――」

「はいはい。
 まったく、新しい仲間が増えるって云うのに、喜ばないのは主にも失礼よ?」

「……仲間だと?」

訝しげな表情をするシグナムに、シャマルは笑いかける。

「そう。だって、主は云っていたでしょう?
 私たちは、家族だと。その一員が増えるのならば、固いことを云うより喜んだ方が良いでしょう。
 それに祝福してあげたいわよ、やっぱり」

湖の騎士と烈火の将。その方向性の違いなのか。
シグナムとは違い、シャマルは新しい命の誕生を喜ぼうと云っている。
それもまた、ヴィータとは違った。彼女は純粋に家族が増えることを喜んでいるというよりも、自分たちが喜んだ方が主も喜ぶと云う。
そしてザフィーラは、

「……」

黙り込んだまま、三者のやりとりを見ているだけだった。
言葉に出さないため誰も気付かないが、彼もまた、ヴィータと同じく脳裏に小さなバグが巣くっていた。
それは彼女と違い――自分たちはこんなことをしていても良いのかという、疑問である。
記憶とも云えない。思い出そうとするも触れることができない何か。
これはなんだ――憎悪だろうか。自分が発したものではない。叩き付けられた憎悪。それに対する申し訳なさだ。

自分たちは平穏に身を投じてはいけない。
否。自分たちは平穏に身を投じるべきだ。
何故? それは――

『…そんなの解って堪るか!!僕だって…!こんな憎しみも欲しくなかった!!八神はやてとも友達のままでいたかった!!こんなに苦しい想いしたくもなかった!』

微かなノイズが頭に走り、ザフィーラは顔を顰める。人間で云えば、頭痛が走ったと云って良い。
誰かの言葉を思い出したのは一瞬で、再びそれはノイズの向こう側へと埋没する。
何かを思い出すことができないのだ。
しかし、それが何か。それすらも思い出すことができない。
同時に、それらへと踏み込む気が加速度的に減ってゆく。
思い出してはならない。今のままでいるべきなのだ。

しかし――

『……ヴィータ』

『……ザフィーラ?』

『お前は、この状況に違和感を抱いているか?
 いや……状況と云うのは何かおかしい、か。
 状態と云うべきか……分からん』

『……何を云いたいのか分からねーけど、なんとなく分かるぜ。
 ……悪ぃ、アタシも日本語おかしいな。
 で、それがどうした?』

『……我らは、何かを忘れている気がする。
 エスティマが云っていたな。以前の記憶を保存しているかと。
 それに対して我々は否と答えたが――それを知るべきなのではないかと俺は思う』

『そう……だな』

応じたヴィータの言葉には、微かな怯えが混じっていた。
彼女らしくない。言い様のない忌避感が滲んでいるように見える。

しかし、

『……なんだか怖えー。知らん顔して今のままでいたい。
 今のままはやてやエスティマと一緒にいて、赤ちゃんが生まれて……ずっとその中にいたい。
 けど、そうしてっと……なんか取り返しのつかないことになる気もする』

だから知ろう。何もなければ良し。何かあるなら、自分たちははやてを守るために動かなければ。
僅かに頷き合って、二人は主たちの守護以外になすべきことを決める。

シグナムやシャマルは駄目だ。
あの二人は今の状況に馴染み始めているとはいえ、未だ闇の書の守護騎士として存在する自分たちになんら疑問を抱いていない。
だから今は、自分たち二人が動くべきなのだ。

そう決意を固め、次の日。
今のはやてに戦闘なんてやらせられない、とエスティマが早速父親顔してフェイトに無理を云い、シフトの再調整が行われることになり、休日が降って湧いてきた。
シグナムとシャマルに適当な言い訳をし、二人は本局へと足を進ませる。
身重の主を放っておくなど――とシグナムが愚痴るのを尻目に、変身魔法で姿を誤魔化して、本局の転送ポートが並ぶエリアに出た。

変身魔法を使った二人の姿は、普段の格好を入れ替えたようなものだった。
ザフィーラは子供然とした姿。歳の頃は十二歳ほどだろうか。しかし、厳めしい表情はいつもと同じで、もう二、三歳は歳を食っているように見える。
ヴィータは普段の幼い格好と違い、今は十八歳ほどの少女へと。
長い赤毛の三つ編みはそのままに、やや目つきの鋭いスレンダーな女性。

そんな二人は、これからどうするかと思案する。
管理局の協力者――嘱託よりも権限のない、民間協力者という立場をフェイトにもらっている――自分たちでは、データベースにアクセスすることもできないだろう。
そこら辺の局員をぶっ飛ばしてIDを拝借しようか。短絡的なことを考えつつも、あくまで冗談のレベル。
しかし、そんな冗談を考えてしまうほどに手段が見つからない。

二人も何も考えてこなかったわけではない。
データベースにアクセスできないのなら、エスティマたちに秘密でフェイトに会うのも手だとは思っている。
あの少女もどうやら、ヴォルケンリッター――以前の自分たちを知っているようだ。二人の欲する情報を話してくれるだろう。
そう思う一方で、本当にそうかとも思う。
可愛い顔をしながら、地味にあの執務官はえげつない。
首輪のはめられた犬とも云える今の自分たち。危険はないとは云え、見付けたら捕縛すべき存在であることに変わりはない。
だというのに戦力として使い、目標としていた次元犯罪者を捕まえるというその所業。
自分たちの扱いが甘いことも、そこに関係するのだろう。味方でいる内は優しくしてやる。言外にそう云われているような気がし、いい気はしなかった。

が、そんな者にでも頼らなければ、今の自分たちは状況を把握することはできないのだ。
今すぐ家に戻ってエスティマやはやてに聞くという線もある。
そもそもそれが一番だと思ってもいるが――幸せの中にいる今の二人にいらぬ心配をさせたくなかった。
それに、はやては今、大切な時期なのだ。不安を抱かせて負担をかけるようなことなどしたくなかった。

「……なんか良い方法でもないもんかね」

今の年相応の、舌っ足らずな感じが抜けたハスキーボイスをヴィータは発する。

「どうだろうな。
 無限書庫とやらに行って、新聞でも調べてみるか?」

「あそこ、一般開放されてねーだろ? 確か。
 それに新聞じゃ、大雑把なことしか分からねぇ。それに、嘘が混じってる可能性すらある。
 ……まぁ、何も知らないよりはマシだと思うけどさ」

うんうんと悩みながら、二人は管理局の見取り図を前にして頭を抱えていた。
するとだ。

「……お、お前ら」

驚愕したような声が背後から。
二人は同時に、首を傾げるようにして振り返る。

視線の先には一人の少女がいた。
よく見知った外見。それもそうだろう。鏡を見ればそこにいて、変身魔法を解除すれば現れる外見が、そっくりそのままこの場にあったのだから。

そこにいたのは、鉄槌の騎士ヴィータ。
管理局の制服に身を包み、威嚇するような視線を向けながら首もとのペンダントを握り締めている。

「お前ら……!」

「お、おい待て!」

今にもデバイスを起動しそうだったヴィータを制して、首根っこを掴みつつずるずると引っ張ってゆく。
それで冷や水を浴びせられたように、小さなヴィータは目を瞬かせた。

通路を曲がり、人気のない場所へと出ると通路に並んだソファーに腰を下ろす。
その隣に小さなヴィータ。その向こう側にザフィーラ。

挟まれる形となった小さなヴィータは、混乱したような面持ちで口を開いた。

「……どういうことだ?
 次に出るのは十年後って――いや、それは良い。
 お前ら、こんなところで何してやがる」

説明をしなくとも大体の事情を飲み込んでいるのか。
目の前にいるのが自分と同じプログラム体と理解しながら、小さなヴィータは質問を投げつけてきた。
それに対し、ちょっと待てよ、ヴィータは上着の内ポケットからパスケースを取り出す。
そこに収まっていたのは一枚の紙っぺら。嘱託魔導師のカード以下の価値しかない民間協力者の許可証だ。
が、それがあるからこそ二人はここにいることができる。

それを見て、少なくとも管理局の敵ではないと分かってくれたのか。
小さなヴィータは疑問を未だ瞳に浮かべたままだが、浮かせていた腰をソファーに下ろした。

「一応確認するけど……アタシだよな?」

「ああ。鉄槌の騎士、ヴィータだ」

「ふぅん。まぁ良い。
 で、だ。さっきの続きを話してもらうぜ。
 こんなところで何してやがる。アタシは闇の書が再び現れたなんて聞かされてねーぞ」

……あの執務官、どうやら本当に自分たちの存在を公にしていないらしい。
もし闇の書が現れたというのならば、小さなヴィータの云った通り彼女へと連絡が行くだろう。

「……まぁ、それは置いといて。
 おめぇ、なんで――じゃなかった。これも後だ。
 ちょっと教えて欲しいことがあるんだけど、良いか?」

なぜ自分と同じプログラム体が稼働しているのか。それも管理局の制服を着て。
それも聞きたくはあったが、今は後回しだ。

「……ん、取りあえず云ってみろよ」

回りを見回して人がいないことを確認すると、小さなヴィータは先を促す。
頷き、ヴィータは自分たちが疑問に思っていることを問うた。

自分たちは何かを忘れている気がする。しかし、その何かを思い出すことができない。
大規模な記憶消去。自分たちが忘れ去ったこととはなんなのか。

それを聞いた小さなヴィータは、ぽつぽつと語り始める。
隠し事をするつもりもなかったのか。まずは闇の書がバグりにバグって本来の機能を失っていることから。
その結果、自分たちはどんな末路を迎えたのか。なぜ自分が今も存在しているのかも追加する。

小さなヴィータは説明の際、はやての名を上げなかった。
彼女からすれば、はやてを闇の書のいざこざから遠ざけたいというのがあったのだろう。
今は大事な時期なのだ。捜査官になれるか否かという。
だというのに闇の書が現れたことを告げれば、主はすべてを投げ出して新たな闇の書事件の解決へと首を突っ込むことになるだろう。
ようやく傷痕が治り始めたというのに、またそれを抉るなんて――それは自分にも当て嵌まる。もうあんな思いをしたくはないと思ってしまうのだ。

また、その話を聞いたヴィータたちの反応。
彼女は聞いた話を元に消去された記憶を復元しようと試みたが、やはり自分たちはプログラムでしかないのか。
残滓がバグとして残っているのだとしても、復元そのものはできないようだった。
悔しさに歯噛みしたい気持ちを抱きながらも、小さなヴィータの言葉を脳裏に刻んで、自分たちのなすべきことを決める。
……魔力の蒐集はしない。そのせいで、悲劇が起こるぐらいならば。
今の幸せが砕け散るというのなら。
絶対にしない……!

「……まぁけど、良かったよ」

「……ん?」

「もし闇の書が再び現れたら、アタシはお前らに今のことを話すつもりだった。
 それでも魔力を蒐集するつもりなら絶対に止めて、そのつもりがないのなら応援こそしないものの触れずに、ってな。
 アタシたちは戦わなきゃ主が死んでた。けど、お前らは違うんだろう?
 だったら主が天寿を全うするそのときまで、ずっと守り続けろよ。
 それこそが、アタシたち……ヴォルケンリッターの、本当の役割なんだからな」

「云われなくても」

「なら良いさ」

小さく笑って、小さなヴィータは席を立つ。

「じゃあアタシは仕事があるから、もう行くぜ。
 重ねて云う。絶対に魔力の蒐集はすんなよ。
 するってんなら……」

「ぶっ潰す、か?」

「ああ」

笑い合って、小さく手を挙げると小さなヴィータは踵を返した。
お前たちとは違う方向に行く。そう語っているように、真っ直ぐ進んでゆく。

その背中を見送りながら、ヴィータとザフィーラは自分たちのなすべきことを、しっかりと頭に刻みつける。
















「ねー、パパ。
 あーんしてあーん」

「そのぐらい自分でできるだろ……」

「ハニー、あーんしてあーん」

「ぐっ……」

一方その頃、レンタルハウス。
ベッドの上で身を起こしながら、はやてはベッドサイドに置かれたプリンを見つつエスティマにそんなことを云っていた。
エスティマはエスティマで、恥ずかしさに耐えながらしぶしぶとプラスチックのスプーンを片手に封を開ける。

エスティマの足元にはコンビニのビニール袋が転がっている。
その中にはさっきまで雑誌が入っており、それは俗に云うたまごクラブ。妊婦向けの雑誌であった。
それはともかくとして、ついでで買ってきたプリンを食べさせてーとはやては甘える。

エスティマの云ったように自分で食べることもできるのだが、倒れたのが昨日の今日だ。
だから、きっと普段はやってくれるかどうかも怪しい甘えも許されるだろう。
そんなことを考えて云ってみたら、見事にやってくれるようだ。

彼も彼で随分と甘い。

「はい……あーん」

「あーん。ん、甘くて美味しい。
 エスティマくんもお一つどうぞ」

「あーん……ああ、背筋がむずむずする」

「今の内から慣れておかんとあかんよ?」

「なんで」

「だってー。私の目標は、赤ちゃんにすら呆れられるぐらいのラブラブ新婚生活やからね」

「……想像しただけで壁に頭を打ち付けたくなってきたよ」

「またまたー。まんざらでもない癖にー」

えいえいとほっぺたを突くはやて。
成されるがままのエスティマは、頬を引きつらせつつプリンを掬った。

「……あーん」

「お、自発的にやりおった。
 あーん」

「まぁ……慣れたってのもあるし」

それに、嫌じゃないから。恥ずかしいけど。
言葉に出さず胸中で呟いて、エスティマは視線を流した。

それにしても物凄い変化だ。
半年前の自分は、はやてとこんな関係になるだなんて想像もしていなかった。
四ヶ月前の自分は、はやてと恋人同士になるだなんて青天の霹靂に右往左往していた。
三ヶ月前の自分は子供ができるだなんて考えもしていなかった。

ここ半年ぐらいで、随分と自分も変わってしまったような気がする。
いちゃつくことに耐性ができてしまったりとか。エロいことに抵抗がゼロになってしまったりとか。
はやてがもう愛しくて愛しくてしょうがないだとか。

完全に骨抜きになっている今の自分を友人たちが見たら、どんな顔をするだろうか。

悪いこととは思わない。むしろ良いことだろう。
自分たちを害するものも、もう存在しない。
闇の書が心配と云えば心配だが、魔力の蒐集をしなければ別に問題もないはずだ。

「そうそう、エスティマくん。
 あーん」

「……あーん。
 で、何?」

「さっきなー、ちょろっと雑誌を読んでたら良いことが載っていたんよ」
 あーん」

「……あーん。
 良いことって?」

「うん。妊婦さんでもできるエッチーってな」

その言葉と共に、プリンがなくなった。
エスティマは無表情のまま空の容器をゴミ箱に入れると、咳払いを一つ。

「……あの、はやてさん。
 まだ朝なのですが」

「うん。まだ朝やね。今日も元気にファイト一発?」

「違うだろ! そうじゃないだろ!
 それにシャマルとシグナムいるし!」

「大丈夫。あの二人なら見て見ぬふりしてくれるから」

「知られてるのかよっ……!
 っていうか、なんでそんなに盛ってんの!?」

「えー、だってエスティマくんにリード任せたらあんまりアクションしてくれへんし。
 やりたがりの癖にー」

うりうりと悪戯を思い付いた子供のような顔で、はやてはエスティマの脇腹をくすぐる。
それを我慢しながら、エスティマは頭を抱えた。
それは……そうかもしれないけれど……。

「……夜にね」

「なんや、残念……っ」

笑顔を浮かべ――それが歪む。
痛みに耐えるような表情をしながら、はやては下腹部に手を当てた。

「大丈夫?」

「ん、大丈夫。
 あはは、赤ちゃんが元気なのかなぁ。
 お腹が蹴られてるのかもー」

「まだそんな時期じゃないだろうに」

微かな笑みを浮かべつつ、大丈夫だろうかとエスティマは思う。
それははやても思っているのだろう。おそらく、自分以上に。
シャマルがいるから大丈夫、とは思うものの、不安は払拭できない。

「……シャマルを呼んでくるよ」

「大袈裟やって。皆に心配かけたらあかんよ」

「けど、何かあってからじゃ遅いだろ」

「……まったく。本当、パパは心配性さんやねー」

まだ形も定かではない赤子へと、はやては苦笑混じりに語り掛ける。
心配性、なのだろうか。他を知らないので判断はできない。
ちょっと待ってて、と云って、エスティマはリビングで待つシャマルの元へ。

そしてはやての調子を念入りに調べてくれと告げ――十分ほど後、部屋からでてきたシャマルの様子に、眉根を寄せた。

青い顔をした彼女。
シャマルは混乱を押し殺しながら、

「……大事な話があります」

冷え切った声で、そう告げた。
















ヴィータやザフィーラが戻ってきて、はやてが昼寝に入ると。
ヴォルケンリッターの四人とエスティマは、近場の公園へと出ていた。
もう日が短い時期になっているのか。微かに太陽は傾き始めている。
茜色に染まり始めている公園の一角。人気のない場所で円を造るように、五人は顔を合わせていた。

「……それで、シャマル。
 大事な話ってなんなんだ?」

エスティマが口を開くと、シャマルは小さく頷いた。
そしてそのまま、深々と頭を下げる。

「……申し訳ありませんでした、エスティマ様」

「……え?」

「すべては、主の状況を正しく把握できていなかった私の責任です。
 叱責も罰も、甘んじて受け容れましょう」

「……待て。いきなり、何を――」

エスティマと同じように、ヴィータとザフィーラもシャマルの様子に顔を歪めていた。
ただシグナムだけは事情を把握しているのか、浅く目を瞑って無表情。ただ、拳はきつく握り締められている。

「思い違いをしていました。闇の書の主が八神はやて様だと思い込んでいたのです」

「……はやて様?」

「はい。我らが主のお母様を、主と誤認していたのです」

「待て! 何を云っているのか分からないって云ってるんだ!
 そんなことがあり得るのか? まだ生まれてもいない子供だぞ?
 リンカーコアだって――」

あるのかどうかも分からない。あっても未成熟で――
そこまで考えて、思い出す。
そもそも前回の主であるはやてだって、未成熟な状態で闇の書の主となっていた。
闇の書が主を選ぶ基準はただ一つ。素質があるかどうか。実力の有無は二の次である。

闇の書の魔力と蒐集行使という稀少技能を手に入れた八神はやて。
はやてと同等かそれ以上。人間の分を越えた莫大な魔力と、加速という稀少技能を持つエスティマ・スクライア。

もし二人の資質をそのまま継ぐならば、確かにそれは闇の書の主となったところで疑問を挟む余地はない。
もし完全に二人の才能を継ぐのならば、あの子は、エスティマですら見たことのない凶悪な魔導師となるだろう。
そして二人の資質を継ぐことが、その凶悪な魔導師として生まれることが、既に胎児の状態で決定されているというのか。

だからこそ闇の書は、名も決まっていない子供を主と選んだというのか。
そしてその子は――

「……お察しの通りに。エスティマ様も闇の書の特性を分かっているでしょう。
 闇の書に寄生されたことで、育まれている命はその灯を消そうとしています。
 このままでは……」

流れてしまうでしょう。

止まっていた思考の先。それを突き付けられ、エスティマは絶句した。
頭の中が一瞬で真っ白になり、次いで、はやての笑顔が浮かび上がってくる。
自分と恋人の間に息吹いた絆を愛おしげに撫でる彼女。
貴い。守りたい。そんな感情を抱かせる光景。

それが壊れるというのか。
諦めろと、云うのか。

そんなことはあり得ない。諦めてやるものか。
そう思うと同時に、どうすれば、と途方に暮れてしまう。
守りたい。何があっても守りたい。
しかし、手許にあるものは力だけ。敵を駆逐する手段があっても、今必要なことは、何も持っていないのだ。

「……ふざけんな」

愕然とするエスティマを余所に、激情を滲ませた声が響いた。
ヴィータだ。彼女は視線をシャマルに――シャマルを通して別の何かを睨みつけながら、犬歯を剥き出しにして咆える。

「ざっけんな! なんだよそれは!
 アタシたちは主を守るためにいるんだぞ! だってのに――"また"!」

「……そうだ、ヴィータ。いつものことだ」

呟き、シグナムはおもむろにペンダントを取り出した。
そしてレヴァンテインのセットアップを行う。
ラベンダーの光が溢れ、一瞬でその姿が守護騎士のそれへと。

「……闇の書の負荷から主を救う手段は、ただ一つ。
 魔力を搾取され主が悲鳴を上げるというのならば、搾取される必要がない状態にすれば良い」

「……待て、シグナム」

「迷うことなど何もありません。
 我らは守護騎士。戦うことで主の生命が守られるならば、もはや迷うことはありません」

「……そうね」

次いで、シャマルがクラールヴィントを起動させる。
戦いへの意志が滲む二人。彼女たちは三人を流し見て、

「どうした、ヴィータ。鉄槌の騎士。
 お前もやるべきことがあるだろう」

「ザフィーラ。あなたもよ」

「嫌だ! アタシは戦わねぇ!」

「……俺もだ。断る」

「……ほう。それはつまり――主が死んでも良いと云うことか?」

その一言に、ギクリと二人は固まった。
視線は次に、エスティマへと。

「エスティマ様。まさか、あなたは止めないでしょうね?
 父であるあなたが。夫であるあなたが、妻子の命を見過ごすなどとは云わないでしょう?」

「……俺は」

云われ、エスティマは縋るように首もとのSeven Starsを握り締める。
しかし、Seven Starsが返事をすることはない。
硬質な感触をただ返すばかりで、主に選択を迫っているようだった。

ギリ、と音を立ててエスティマは奥歯を噛み締める。

「……待ってくれ。何か方法が、あるはずなんだ」

「それはどのような?」

「分からない。ただ、探せば、何かが……」

「……エスティマ様。もはや事態は一刻の猶予もありません。
 主の命がいつまで保つか分からない以上、我々は全力で魔力を蒐集しなければならない。
 それに手を貸していただけるのならば、我々も心強いのです」

「それは……駄目だ。できない。
 魔力を蒐集した果てに何が起こるのか、お前たちは分かっていない。
 そんなことをしたら――」

「……ならば、他に手があると?」

「だからそれを今から考えるって……!」

「……聞き分けの悪い子供ではないのです。
 割り切ってください、エスティマ様」

「……けど!」

けど、とエスティマは縋ることしかできない。
方法なんて分からない。しかし、即決即断が許される事柄でもない。
破滅が待っていると分かっていて、それにはやてと我が子を付き合わせることなどできはしない。そこまで外道になった覚えはない。
もし自分だけが犠牲になれと云うのならば喜んで。自己犠牲は得意だ。思わず自嘲しそうになってしまう。
しかし、今だけは――自分が犠牲になってはやてたちが救えるのならばなんでもすると、心の底から思えるのだ。
しかし、そんなご都合主義は用意されていない。
待っている破滅に突き進むか、座して不幸に濡れるか。
その選択をシグナムは迫り、そして、

「……そうですか」

心底から失望したように、頭を振る。
この場で決断できないお前は外道ですらない。腑抜けが。
そう云われているようで、しかし、エスティマに返す言葉はなかった。

「あなたは主と、はやて様が大切なのではなかったのですか?」

「当たり前だ。大事だと思ってる。
 だからこそ、そんな馬鹿げたことに手を貸すわけにはいかない!」

「馬鹿げたこと、と云いますか。主の命を救うことを」

「だから、命を救うにしたって、他に手段があるはずなんだ!」

「ならばそれは?」

「分からない。けど、探してみないと……!」

「……物わかりが悪い。
 はやて様を守りたいと私たちに云った言葉は、嘘だったのですか?」

「嘘じゃない!」

「ならば……」

呟き、シグナムは真っ直ぐな視線をエスティマへと向ける。
瞳に浮かんでいるのは敵意だ。燃え広がる前の、燻ったていどの勢い。
あるいは自制しているのかもしれない。こんな男でも主の父親なのだから、と。

「……分かったぜ、シグナム」

黙り込むしかできないエスティマの隣から、ヴィータが。そしてザフィーラが一歩踏み出す。
同時に、

『エスティマ。アタシらが時間を稼ぐ。可能な限り、魔力の蒐集を遅らせる』

『だからお前は、魔力の蒐集以外で主を救う手段を探してくれ』

そう告げ、二人は戦闘態勢へと移行した。
なぜ二人がそんなことを云うのか。エスティマの思考はそこまで及ばない。
戦う意志を見せた二人を満足げに見て頷くと、シグナムはレヴァンテインを抜き放つ。

「我らヴォルケンリッター。成すべきことはただ一つ。
 主の命を盾となり、剣となり守ることなり」

四人の足元に古代ベルカ式の魔法陣が展開される。
おそらくは転移しようとしているのか。
だが、エスティマはそれを止めることができない。

彼女らを止めるということは――子供の命を見過ごすということ。
それは許せない。みすみす殺すことなど、あってたまるか。
だから彼女たちを止めなければならない――しかし、子供を守ろうとしてくれている彼女らを止めてはならない。
なんて矛盾。
ただ傍観するしかないエスティマは、魔力光の残滓が消えゆくまでずっと、そこに立ち尽くしていた。

そして、

「畜生……!」

血を吐くような思いで、恨み言を吐き出す。
誰に対してか。それは闇の書を改造した馬鹿へなのかもしれないし、こんな恐怖劇を思い付いた神様へなのかもしれない。
ただ確かなことは、不様で無力な自分への罵倒ということだけだった。

「畜生…………!」

どうにもならない。
はやてのときはまだ救いがあった。
管理者権限を使ってのプログラム切り離し――しかし今度は、それすらもできない。

意識があるかどうかも怪しい――おそらくないであろう赤子にそんなことができるわけがない。
難易度が高いなんてものじゃない。不可能の三文字が重くのしかかる。
それにこの世界にはユニゾンデバイスに対するノウハウというものも存在しない。
リインⅡを製造できた向こう側ならともかく、ここでは闇の書を解析することすらできないだろう。

「あぁあぁぁああ……!」

やり場のない怒りが渦を巻き、爪を立てて頭を抑える。
頭皮に食い込む痛みすら生温い。

砕け散ってゆく。
今度は自分のせいなどではない。
どうにもできない偶然で、為す術もなく、大切なものが崩れ落ちてゆく。
積み上げてきたものを土台ごと引っ繰り返されつつある。

自分たちの幸せに意味などあったのだろうか。
幸福だったと思えていた日々が霞んでゆく。

もう諦める以外にどうしようも――

「……たまるか」

――どうしようもない、のだとしても。

「諦めて、たまるか……!」

辛くて逃げ出したいことは今まで幾度もあった。
戦いに疲れ、痛いのが嫌で、逃げ出したくなったこともあった。
けれど、その果てに幸せがあると盲信していたからこそ走り続けることができ――ようやく手にしたのだ。幸福を。

それが潰えようとしているからこそ絶望に濡れ、しかし、今までの努力を、犠牲を無駄にしないためにも膝を屈するわけにはいかない。
そして何より――この手に抱いた愛しい人を諦めるなど、できるわけがないのだ。

















ここは自分の居場所ではない。
孤独感とも違う。おそらく違和感が最も近いだろう。
異邦人。その言葉はきっと自分にしっくりくる。

クーパー・S・スクライアとは、そもそもこの世界の住人ではなかったのだ。
だから何をやっても違和感は拭えない。どこへ行っても、お前は弾かれていると云われている気がする。

それが決定的となったのは、エスティマ・スクライアが姿を消したことだった。
他の誰がなんと云うおうと、彼が中心となっていたのだろう。
部隊長が消えた、というだけでは言い表せない空虚が、六課には満ちていた。
それだけではない。彼の兄であるユーノ・スクライアもまた、彼が消えてしまったことで日々憔悴しているように、クーパーには見えた。

唐突に誰かがいなくなることがどれほどの痛みをもたらすか、クーパーは知っている。
自分も一度は味わったことだ。八つ当たりの相手がいたから良いものの、もしあれが純然たる事故で、誰も怨むことができなかったとしたら、きっと自分は致命的なまでに壊れていただろう。そんな予感があった。

そしてクーパーが一度は飲み干した毒が、この世界にも滲み始めている。
ヴォルケンリッターは魔力を供給してくれる主がいなくなったことで、素体へと戻った。
最初は二人が戻ってくるまで魔力を節約し活動していたが、それも限界に達し、今の記憶を保存して眠りに就いた。

その中でシグナムとリインⅡだけは未だ稼働している。
もともと魔力消費のそう多くないリインⅡ。シグナムは少女から以前の子供の姿となって、なんとか凌いでいる。
が、それも長くは保つまい。終わりは間近に迫っていた。

高町なのはは、意気消沈している皆をなんとか元気づけていた。
エスティマへまったく依存していなかったこともあるのだろう。彼女は友人たちの中で、一番マシな状態のようだ。

フェイト・T・スクライアは、兄が姿を消したことですっかりふさぎ込んでしまっている。
花とも呼べる彼女がそんな状態だからか。キャロとアルフも同じように。

ナカジマ家の三人――否、四人か。
彼らは行方を眩ませた二人の捜索に全力を注いでいるようだった。
職権乱用というべき行動だが、しかし、今度は自分たちが助ける番だと、ミッドチルダをかけずり回っている。

ゼスト・グランガイツとレジアス・ゲイズもまた、同じであった。
ただこの二人はナカジマ家とはスケールが違う。
ゼストは聖王教会に働きかけ、己を先頭に次元の海を。
レジアスはそんなゼストが動きやすいよう、下げたくもない頭を海の連中に下げ、長年自分と共に戦い、その成果を見せたエスティマに報いるべく海と協力している。

誰もが誰も、エスティマと八神はやてに捕らわれている。
彼がいなくなったというのに、彼のために動いている。
そんな姿に既視感を覚えた。自分だ。ユーノが倒れたときの自分の姿だ。

……ならば彼らは、自分が原因だと知ったとき、殺しにかかってくるだろうか。
馬鹿げた妄想。そんなことはない。彼らは自分よりずっと理性的だ。ワガママな子供ではない。
癇癪を起こしたように自分を殺してもなんにもならないと分かっている。

……すっかり居心地が悪くなってしまった。
逃避先もまた、地獄でしかない。その地獄もまた、自分が生み出してしまった。
こんなはずじゃなかった。ここにはすべてが揃っていた。
もう目覚めることがないかもしれない家族。会えるはずがなかったヴォルケンリッター。
誰もが自分に優しい世界。戦わなくて良い世界。誰もそれを強要しない世界。

これは、そんなぬるま湯に浸かり続けた自分への罰なのだろうか。
一時の夢が永遠になれば良いと間違った願いを抱いた己を、神様が罰したのだろうか。
クーパーは神を信じているわけではない。むしろ馬鹿にしている節すらある。
けれど、ここまで悲劇的なことの運びを目にしてしまえば、その存在を意識せずにはいられない。
そして、怨まずにはいられない。

なんで自分ばかりがこんな目に遭うのだろうか。
向こうの世界でそう思ったことは一度や二度ではなかった。
けれど、ここでもそれを思ってしまうなんて。

「…僕のせい、なのかな」

ぽつりと呟く。
膝の上で丸くなっているアルトが髭を揺らすも、言葉を返すことはない。当たり前だ。
誰もいない。いなくなってしまった部屋で、一人クーパーは言葉を落とす。

そして、その声に反応するものがあった。

"んー? んな今更なことをどうしたブラジャー"

「…僕が願っちゃいけないことを願ったから、こうなったのかな」

"だらかそう云ったじゃんよ。おめーは一人でおっ死ぬべき人間だった。
それが欲目を出したからKONOZAMAだ。
良かったなクーパー。あのイケメンを次元の彼方に吹っ飛ばして、新しい居場所ができたぜ?
喜べ喜べ。喜んどけよクソが"

「…そんなこと、できるわけがない」

そうだ。
自分の居場所だと思っていたものは借り物で、皆が皆優しかったのは、エスティマ・スクライアというバランサーがいたからだった。
けれどそれを崩したのは自分であり――彼がいなくなった以上、もうここはクーパーが微睡んでいた夢ではない。
夢ではあっても悪夢でしかない。

どうしようもない。彼がいなくなってしまったのならば、もう修復不可能と云える。
修復できたのだとしても、それはもう、彼というピースの欠けた、歪な別物だ。

……ここは自分の居場所ではない。
自分の居場所は、目を逸らしたい現実が雁首並べた向こう側。
ここにいて良いのはエスティマ・スクライアであり、クーパー・S・スクライアではない。
そんなことは分かり切っている。

大好きな人々はここにもいた。これから大好きになれるであろう人々もいた。
けれど――自分がいることで彼らを苦しめてしまうのならば。

「…決めた」

呟き、アルトを一撫で。
行くのかい? と尻尾を揺らすアルトに微笑みかけて、クーパーは立ち上がった。

"おうおう、どうしたブラジャー。あんまり辛くてノーロープバンジーでもする気になったか?"

「…そうしたいのは山々だけどね」

嘲笑が口元に浮かぶ。
自殺。それを考えたことは一度や二度ではない。
しかし逃げたい逃げたいと言い続けながらも根性なしの自分は、一度だってやったことはなかった。

大好きな人々。彼らをこれ以上苦しめたくはない。
けれど、ああ――あのお人好しの執務官に染まってしまったのか。
彼と同じぐらいにお人好しとなってしまった彼らは、自分という異物が消えても悲しむだろう。

だから、

「…連れ帰る。エスティマさんも、八神さんも。
 僕が、連れ戻す」

"……は? おいおい、ちょっと待てよブラジャー。
長生きしすぎたのか、ちょっと今、耳がおかしくなった。
なんだって?"

鼎らしくない声が漏れた。
呆然と。そして驚きに染まった声だ。

それに対してなんら感情を見せず、クーパーは淡々と決めたことを口にする。

「…帰れっていうなら帰るよ。
 一人寂しく死ねっていうなら、そうする。
 けど、それに皆を巻き込みたくない」

呟き、自分の言葉を噛み締めるようにゆっくりと告げる。
大好きだった兄。それと同じく、こちらでもこんな自分を相手にしてくれる兄。
鬱陶しかったけれど一緒にいて楽しかった皆。それと同じく、こちらでも興味のないポーズをとるクーパーを引っ張り上げてくれた皆。

皆、皆、大好きだ。
だからもう、駄々をこねる子供でいるのは止めよう。
起こった事態に振り回されて、不幸に酔うのはお終いだ。

cry baby.
不満を云うだけなら誰でもできる。
けれど、誰にもできないこと――自分にしかできないことをやろう。
エスティマを連れ戻して、この良い夢を夢のまま糧にしよう。

悪夢のまま終わらせはしない。
絶対に。

"カハッ――"

そんなクーパーの意気をどう取ったのか。
喉を引きつらせたような響きを上げて、哄笑でクーパーの頭蓋が揺れる。

"おめぇ、本当にクーパーか!?
どういう心変わりですだよ!?"

「…うるさいな。黙れよ。
 もう、決めたんだ」

"オーケーオーケー、失礼しました。
けど、そうかー……!"

愉快でたまらないと、鼎は笑う。
何がそんなに面白いのだろうか。クーパーには分からない。
鼻を鳴らして、自分の事情を知っている数少ない人物――シャーリーの元へ行くために足を進める。

鼎は面白くてたまらなかった。
クーパーは知らない。覚えてないというよりは、その記憶がすっぱりと物理的に存在しないのだ。
過去のクーパーがどんなだったのか鼎は知っている。
境遇もあるだろうが、しかし、一度だってクーパー/ニネがあんなことを云ったことはなかったのだ。
いや、一度はあったかもしれない。聖王と戦う少し前、生きる証を残したいと云ったときか。
しかし、あれは破滅的な衝動から出た自己の救済と云える。
決して、今のような――自分以外の者のため、などという貴い意志ではなかった。

らしくない、感慨深いとも云える感情が鼎に満ちる。
もうクーパーは、己のスペックを十全に振るうことはできないだろう。
鼎を開放するためには、黒々とした感情が必要となってくる。
諦め、絶望、憎悪――だが今のクーパーが見ているものはそれとまったく別のベクトルを持つ。

それは希望だ。自分が希望となろう。自分にしかできないのなら。
それがクーパーを突き動かしている。
その時点で、もはや鼎は借家暮らしの騒々しい物体に成り下がる。
今の状態が続くのならば、その内、意識すらも表に出すことはできなくなるだろう。

そう、今のままならば。
この小僧は希望を持ち続けることができるのか。
それとも再び絶望に濡れ、自分のところに戻ってくるのか。

ああ楽しい――と、鼎は吐息を漏らす。
決して彼はクーパーがこうなることを望んでいたわけではない。
あくまで兵器でしかない鼎は、それが十全に振るわれることを望んでいる。
しかしその役目は、数百年前で既に果たしているのだ。

今この時は、ただ宿主が右往左往する様子を眺めて楽しむ余興でしかない。
けれど、その余興が今までに見せなかった状況へと転がりつつある。
その状況が進んで自分が消えるのならば――それもまた、一興。

さあ見せてみろガキ。お前はどうする? 何をする?
声に出さず、次週の漫画を楽しみにするのに近い気分で、鼎はクーパーを想った。

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