「では、摘出手術は一週間後に。検査のため、二日前から入院してもらうことになります」
「分かりました。ありがとうございます」
頭を下げ、エスティマは診察室をあとにした。
腕に制服の上着を抱え、彼は小さく溜め息を吐く。
ひとけのない、病院特有の臭いが充満した廊下には、それが妙に反響する。
これで、一段落なのだろうか。
たった今、医者のいったこと。一週間後、エスティマの体内からはレリックが摘出される。
死亡した後に埋め込まれ、それによって生き続けているのではと疑念があったためずっと検査を続けるだけだったが、ここにきて遂に元の身体に戻れる算段がついたのだ。
胸板を一撫でして、彼は薄く笑みを浮かべる。
ただ忌々しいと思い続けていた身体だったが、こうして別れを告げる段階になると寂しくなるのは流石に調子が良いか。
しかし、長年負けることなく戦い続けることができたのは、レリックのお陰ということもあるだろう。
異物のお陰で身体はボロボロになってもいたわけだが、それはそれ。
もう身体の調子だって悪くはない。レリックを抱えたまま戦わなければ問題はないのだ。
力を失うことに微かな寂しさはあるも、未練はない。
もうこれは必要ないのだから。
制服に腕を通すと、エスティマはそのまま歩き始める。
ナースステーションを横切って、エレベータで下り、ロビーへとたどり着く。
そうして目に付いた女性に、エスティマは首を傾げた。
「あれ? はやて?」
「エスティマくん!」
エスティマの姿を目にすると、はやては小走りに駆けてきた。
エスティマと違って彼女は私服だった。が、そもそも、今日は休日。
局の施設を利用するからエスティマが制服を身につけているだけに過ぎないのだ。
「どやった?」
「特に問題はなし。一週間後に手術」
「ん、そか」
小さく頷いて、彼女はそれとなく周囲を見渡すと、そっとエスティマと腕を絡めた。
そして、耳まで朱に染めながらも笑顔を浮かべ、エスティマを見上げる。
「行こ?」
「……ああ」
歩調に気を付けながら彼女と共に歩き出しながら、エスティマは微かに苦笑した。
けれど、その苦みは照れだ。彼女の様子に困ったというわけではない。
――結社が崩壊してから。
エスティマは海上収容施設へと足を運び、そこでチンクと顔を合わせた。
彼女を犯罪者として扱いながらも、なぜ投降を――約束を破るようなことをしたのかと問うために。
それを聞いたときの彼女の表情を、エスティマは今も脳裏に描くことができる。
――お前の荷物になりたくなかったんだ。
そう、彼女は少しだけ悲しそうに言った。言って、リングペンダントを返してきた。
交わした会話らしい会話はそれだけだ。それ以外は、事務的でエスティマの望んだ内容ではない代物。
愛想を尽かされたのだろうか、とエスティマは思う。
同時に、自惚れでないのならば、彼女は気を遣ってくれたのだろうとも。
彼女から返されたリングペンダントを、エスティマはその日の内に処分した。
チンクとはそれっきりだ。もう今後、事務的なこと以外で交わることはないだろう。
もう、エスティマが彼女をフィアットと呼ぶことはない。
どんな気持ちがそこにあるのだとしても、彼女がそれを――過去を突き返して、別れを選んだのなら。
その選択をエスティマに否定するつもりはなかった。
だからというわけではないが、エスティマはその日から、徐々にはやてのことを意識していた。
心に余裕ができたこともある。しかし、すぐに彼女とくっつこうとは思っていない。
振られたから都合の良い方に走ったみたいじゃないか、という馬鹿なプライドがあったりする。はやてに悪いというのも、一緒に。
……ただ、腕を組んで歩いているこの状況は既に男女のそれだが。
寄り添って、それも身体の一部を密着させて歩くことに慣れてない二人は、怪しげな足取りで先端技術医療センターの外へと。
しかし、しばらく歩けば足並みは揃ってくる。お互いが合わせようとしてズレていた調子を、はやての方が合わせて収まった。
その在り方にエスティマは苦笑しきりだ。はやてははやてで、どこか得意げそう。
「どうしたん?」
「いや……」
「ふっふー。エスティマくんに合わせることに関しちゃ、誰にも負けへん自負があるからな。
こんなもん面倒でもなんでもないわ」
「……面目ない」
色々と。
「ね、エスティマくん。ユーノさんたち、クラナガンへ遊びにきてるんやろ?
合流せえへん?」
「ん……そうだね」
良いの? とエスティマは聞きそうになった。しかし、愚問だろう。彼女の方から言い出したのだから。
はやてとユーノ、フェイトの間には微妙な溝がある……とエスティマは思っている。
それは時間の経過で埋まったような気もするが、その分、線引きのように深い亀裂が残ってしまったような気も。
しかしそれは、彼女たちが顔を合わせて話をしている場面を、エスティマが見ていないからだろう。
実際にどうなのかは、分からない。
少なくとも、はやては今のままにしておくつもりはないようだ。
そうでなければ、ユーノたちと合流しようなどいわないはずだし。
そう早くない、ゆっくりとした歩みのまま、二人は市街地を目指す。
メールを送ってみれば、どうやら近場のファミリーレストランで休憩をしているらしい。
少し考え、エスティマははやてに問う。
「はやて、お腹空いてる?」
「んー? お腹一杯やでー」
ぎゅーっと、苦しくない程度にはやてが腕を抱き込む。
服の上からでも分かる、小振りだが確かな膨らみに、エスティマは色々と困った。
「あの、はやて……」
「冗談やって。お腹、空いてるよ?」
「なら、合流しようか。
にしても……」
「何?」
「……そう明け透けにやられると、さ。
困るんだけど」
どこか悪戯めいた顔ではやては首を傾げる。
「どう困るん?」
「簡単な話だよ」
「うん」
「俺は女が好きだ」
その言葉に、さっきまでとはやての様子が変わる。
照れが一瞬で羞恥へと転化して、頬に刺す朱が色を濃くした。
「……そ、そか」
「あんまりくっつかれると、色々と持て余す」
「あぅ……」
「腕に当たる感触とか実に心地良い。
俺の身長からはやてを見下ろすと、シャツの隙間から見えるブラが……」
「エスティマくんの方が明け透けやないかー!
セクハラやって、もー!」
限界まで真っ赤になったはやては、組んでいた腕を放して距離を取る。
そしてジト目でエスティマを見つつ、結局は近付いて手を繋いだ。
「えっちぃなー。
安心できへんからこっちや」
「うん、それが良い。俺もはやてのこと襲いたくないしね」
「ひどっ!? 魅力が足りひんの!?」
「そういうのは合意の元でやりたいから。
はやてとはね」
手を繋いで少しは引いた紅潮が、またぶり返した。
今度は俯いてしまい、ばか、とはやては小さく呟く。
そうして歩みを進めていると、二人はユーノたちの待つファミレスへとたどり着いた。
繁華街の中にある、無理矢理ビルの隙間に押し込んだような店だ。
大ガラス越しにエスティマはユーノたちへと手を挙げ、挨拶をする。
向がわにいるフェイトたちの顔は、どれも驚いたようなものだった。
当然だろう。エスティマとはやてが手を繋いでいる――それを見せつけるように。
今までは決してやらなかったことなのだから。
ユーノたちを前にして、繋いだ手――はやてはぎゅっとエスティマの手を握った。
見てみれば、彼女は笑顔こそ解いてないものの、僅かに表情を硬くしている。
はやてがどんな心境でここに立っているのか。分からないわけではない。
……本当、強い子だな。
きっと、自分よりもずっと。
ファミリーレストランで昼食を取りながらクーパーはどこか呆けた心地で、今日のことを思い出していた。
遊びに行こうとユーノに誘われて、そして今日。
スクライアの者たちにエリオを加え、アルトに留守番して貰い、一行はクラナガンを遊び歩いていた。
遊びに行こうとはいっても、その実は、スクライアで預かることになったクーパーの服などを買うのが一番の目的だったのだろう。
女三人――フェイトとアルフ、キャロと――に付き合う男三人――ユーノとクーパー、キャロ――で移動したのだが、大体は性別で別れて移動していたようなものだ。
クーパーの服だというのに意見をほぼ無視して選び始めるアルフ。それに釣られる形で、フェイトとキャロがはしゃぐ。
男三人はそれに押されるばかりであった。
…僕の服を買いに来たんですよね? というクーパーの素朴な疑問はユーノに苦笑されて、女性陣にはガン無視される。
そんな様子に最初は困った風に付いていったクーパーだったが、無意味にはしゃぐ――きっとわざとだろう――皆に押されて、いつの間にか悪い気はしなくなっていた。
この人たちが悪人ではにことは知っている。"向こう"でもそうだったのだ。
自分の知る彼らよりもずっとマシな状況に身を置くのだから、それも当たり前だろう。
ずっとそんな彼らを見ていて、心のどこかで苛立ちを感じていたクーパー。
けれどそれも、もう良いかと彼は思い始めていた。
拗ねているようなものだった。どうして自分は、と。
けれど、ここにいる彼らは、そんな自分を受け容れようとしてくれている。
それに間違いはないだろう。
無限書庫で働いていて、ずっと自分のことをユーノやアルフが気遣ってくれていることに気付いている。
なぜ、そうするのか。きっと大した理由はない。彼らが善人だから、当たり前のようにそうしてくれるのだろう。
そんな様子にクーパーが抱く気持ちは、苛立ちであった。
どうしてこの人たちは、と。
なぜこうも幸せそうにしているのだろう。なぜ自分にこうも優しくしてくれるのだろう。
もうクーパーが見ることのできなくなった――かもしれない――笑顔を向けるユーノ。
クーパーの見たことのない顔を見せるフェイト。生き生きとしたアルフ。
自分の知る彼も彼女も浮かべていたって良い表情を、なぜ自分は手に入れることができなかったのだろう。
これは何かの罰なのだろうか。神様なぞ信じていないクーパーだったが、この時ばかりは、超常的な何かが自分へ当て付けをしているのだとすら思った。
けれど――
なんのことはない。この人たちはなんの悪気もなく、自分を受け容れようとしているに過ぎない。
自分のことを何も知らない癖に。そんな子供染みたことすら考えてしまいそう。自らの心を守るために。
きっと知ったらこんな顔もできなくなるはずだ。……本当にそうか?
…いいや、違う。そうじゃない。
僕は、この人たちに受け容れられて良いのか。そればかりが気になっているのだ。
もし自分を本当に受け容れようとしてくれいるのなら――僕は。
ふと、この世界にきてからの鼎とのやりとりを思い出す。
―― …受け容れられても良いのか?
――バッカじゃねえのお前! そうしてまた不幸にする気かよ!
―― …そんなことは、ない。この人たちは強い。僕よりずっと。何があったって……。
――そう思うのはてめぇ様の勝手っすけどねー。
―― …けれども僕は。
――あん?
―― …ここにいても、いいのなら。それに、帰る方法もないんだし。
そこで言葉に詰まり、鼎は馬鹿みたいな笑い声を延々と上げ続けた。
ならそうしよろクーパー。止めはしない。酷く楽しそうな顔で、そう告げた。
日和ったクーパー。てめぇは大事なことを忘れてる、と。
「クーパー?」
「…は、はいっ」
声をかけられ、クーパーは我に返った。
見てみれば、心配そうな色を表情に浮かべたユーノがこちらを見ている。
いつの間にか考え事をしていた。
今、自分たちは買い物に一段落をつけファミリーレストランで遅めの昼食をとっている。
つつ、と視線を動かしてみる。
アルフは既に食事を平らげて、満足そうな顔をしている。
フェイトはキャロやエリオと会話をしながら、食事を続けていた。
自分は、と見てみれば、まだ半分以上の料理が皿に残っている。
だというのに呆けている自分を、ユーノは心配してくれたのだろう。
「疲れた?」
「…いえ。そんなことは」
「そう。なら良いけど……ごめんね、振り回しちゃって」
「…そんなこと、ないです」
クーパーは止まっていたフォークを動かすと、冷め始めたパスタを切っ先に絡めた。
……そうだ。そんなことはない。
振り回されて疲れたことは確かだ。けれどそれは――楽しかった。悪い気分はしなかった。
だから、そんな申し訳なさそうな顔をしないで欲しい。
あなたは何も悪くない。悪いのは自分で――
「……ん?」
「…どうかしたんですか?」
「いや、エスティから念話が……」
そういって、ユーノは窓の外へと視線を向ける。
釣られて、クーパーも。
視線の先には、八神はやてと手を繋ぐエスティマの姿があった。
そういう関係じゃないと云っていたけれど、いつの間に。
自分が無限書庫に出向いていた最中に何かがあったのだろうか。
そんなことを考えながらユーノの顔を見上げると、そこにあった微妙な表情に、クーパーは首を傾げた。
喜んでいるような。困っているような。くすぐったそうな。
なぜ、ユーノがそんな顔をするのかクーパーは分からなかった。
そんなに変な顔をするようなことなのだろうか。
ふと、気になって他の人たちを見てみる。
アルフはユーノと似たような顔をしていた。
けれどフェイトは違う。無表情に近く、仄かに怒りを燻らせているようだった。
何故だろうか。そう思いながらも、今度はキャロとエリオに。
キャロの方は不思議そうに首を傾げていた。きっと、クーパーと似たような心境なのだろう。
エリオはエリオで、二人の様子を直視できない様子。お子様、とクーパーは口の中で呟いた。
二人が姿を現すと、食卓の空気が淀んだ。
主にそれはフェイトの垂れ流すなにかのせいなのだが。
「…む、迎えに行ってきます」
空気に耐えきれなくなったクーパーは、できるだけ静かに席を立つと店の外へと。
唐突に姿を見せた二人に、少しだけ腹立たしいものを感じつつ。
せっかく悪くない気分だったのに――と思い、すぐさま、自分の考えに気持ちが沈んだ。
…まるで我が物顔だ。
自分の知るものではないというのに。
浅ましいとすら思う。もう手に入らないものがあるから、こっちに流れつつあるなど。
"ハローCQCQ。聞こえますかよブラジャー"
「……ッ」
脳裏へ唐突に声が響く。念話ではない。鼎だ。
不快感に足元がふらつきそうになりながら、必死に耐えて、クーパーは店の出口を目指した。
「…なんだよ」
"最後の忠告をね。いやー、本当、優しいねワレサマ。
――今すぐここから消え失せろ、クーパー"
「…なんで、そんなことを云われなきゃならないんだ」
"あれれ、その気はない?
良いのかな?
あれれ小さな胸が震えてるー抱き締められたら壊れーちゃうよー!"
「……」
鼎の声を黙殺して、クーパーは外へと。
そしてエスティマとはやてに会釈する。彼の隣にいるはやての顔は、どこか不安そうな顔をしながらも、幸せそうだった。
自分の知る彼女よりは。
……ここに、いたい。
それが子供の駄々だということは分かっている。
けれど、眼を背けたい現実から、やっとのことで逃れることができたのだ。
そうだ。クーパーはずっと逃げ出したかった。
逃げ出したかったけれど、そんなことは出来るはずがないから諦め、疲れ果てていたのだ。
けれど、その逃避はここに完成している。
完璧だ。誰もクーパーを責めない。誰もが優しい。ここでずっと生きていても、問題はない。
なら――僕がここにいても――
"……馬鹿だぜテメェ。俺が云っていた逃げろってのは、そういう意味じゃねーんだよ。
一人寂しくおっ死ねってことなんだっつーの、クソが!
はい、タイムオーヴァー!"
怒りすら滲ませた声が、脳裏に響く。
どういうことなのか、クーパーには分からなかった。
だから、いつもの嫌味なのだろうと、そう思って――
胸板に突き刺さった何か――掌低に、目を見開いた。
知覚も出来ない速度で向けられたそれは、エスティマのもの。
なんで、そんな――そう考えた瞬間、クーパーは道路標識に背中からぶつかった。
次いで、身体を標識に固定される。サンライトイエローのチェーンバインド。
一体、何が。なんでこんなことを?
咳き込み、酩酊状態に近い意識を無理矢理奮い立たせる。
どれほどの間、酔っていたのだろう。
自分で答えを出すことができず、クーパーはただ答えを求めてエスティマを見る。
が、そこにエスティマの姿はない。
忽然とエスティマ・スクライアと八神はやての姿は消えていて――
そこには、八神はやての履いていただろう靴の片方だけが残っていた。
この日、エスティマ・スクライアと八神はやての姿はミッドチルダ――否、この世界から消え失せる。
消失した瞬間を目にしていたユーノたちの証言により、おそらく極小規模の次元震に巻き込まれたのではないかと予想されるが、原因、真相、共に調査中。
尚、次元震に巻き込まれかけたクーパー・S・スクライアは、エスティマ・スクライアが咄嗟にとった行動により巻き添えとならずに済んだ。