沢山の音が聞こえる。エンジンを唸らせ走り去っていく車の音。
排気ガスが鼻につく。ノイズに似た靴の音は絶え間なく、どこかの店で流れるBGM。
人の声が寄せるざわつき。何かの機械の音。電車。工事現場。販促。絶え間なく聞こえる何か。

 街には音が溢れている。常に何か聞こえる。
プレイヤーで音楽を聴いている人もいる。
でも、その中に変わった音がたまに聞こえる。

カっ、カッ、カ、カっ、カッ、カ、カっ。

 少し硬質な音。初夏の日差しに新緑が映え、働くキツツキよりも生真面目に。何か叩くような音が連続して聞こえる。
人はその音を耳にした時、思わずその音源を目で探す。見つけると同情と僅かな哀れみを抱く。もしかしたら差別かもしれない。
それでも、健常者なんてそんなもの。心のどこかで、そう思わない人はいない。冷たい人はきっとこう思う。

「ああ、あの人目が見えないんだ」

 正体は白杖が地面を叩く音。

カっ、カッ、カ、カっ、カッ、カ、カっ。

カッ

 目が見えないということは、とても怖い。視力があれば視界に収まるものは全て見える。
どこに何があるのかも誰がいるのかも解る。色も、物も、街も、何もかも。目が見えるって気持ち良い。外でも元気に遊べるし、
人との接触にも不都合が無い。欝じゃなくて、ネガティヴに生きる人は一度盲目の体験でもしてみればといい。

 何も見えないという恐怖を体験したらいい。目が見える幸福を噛み締めてほしい。目を瞑ったまま悠然と歩ける人は、
どれだけいるかな。恐怖を感じずに悠然と歩けているとしたらその人はきっと凄い。私は是非弟子入りしたい。
私はそんな勇気がない。いつも恐怖心を押し殺して歩いている。今もそう。

 街なかに聞こえる色んな音を聞きながら白杖を手に歩いている。杖で足元を叩いたり探りながら歩く。
素材は知らない人も多いけど繊維強化プラスチック製。これで、カツカツ叩きながら歩く。面倒なのでワン、ツー、スリー、
スライドのやり方は省略する。音が周囲の人間に対して「私はここにいるよ、目が見えないの」ということも知らせている(と思う)

 周囲の人間は恐らく、その音に引かれ私を見て、「ああ、あの人目が見えないんだ」と思ってくれる。
それが解ってもらえなければ困る。盲目の人間というのはとても弱い。現に私も外を歩く時は人一倍敏感になって歩く。
とても怖い。色んな音の中がするのに目の前は真っ暗。頼りなのは白杖だけ。

 後は白状が叩く音だけが周囲への呼びかけになっている。もしも杖が折れたりしたら、
私は怖くなって身動きが取れなくなりその場に佇んでしまうかもしれない。 気分転換に少し多めに空気を吸い込んでみると、
排気ガスの匂いが鼻についた。臭い。少しむせながらも道なりに真っ直ぐ行くと、杖があるものにぶつかり私の足も止まった。

 杖越しに手が感じるのは少しゴツゴツしてて、この先は危険だよ。という印。そして前からは車の音が絶え間なく聞こえている。
この先は横断歩道ということになる。ひっきりなしにエンジンの音が聞こえている。
私は頭の地図に描きながら今自分がいる場所を考える。

 ここは海鳴という極平凡な街。私の地元。慣れた道。でも、知らない道なら緊張に緊張を重ねていると思う。
だから、知らないところには極力行きたくない。怖いんだもの。13歳の中学1年の冬、私は交通事故で光と父と母と妹を失った。
紆余曲折あって今は一人で生きてる。波乱万丈程御大層な人生でもなければ素晴らしいものでもない。

 ただ、盲目の女が一人で生きる術を学び私は今ここにいる。世話をしてくれた人も病で逝った。私は良い方向へと歩きたい。


” 信号が 青に なりました。 ”


 ピンポーン、という音と共に横断歩道に障害者用の音響が流れ始め白杖をしっかりと握る。
どうせ周囲の人間は私を気遣って近寄ってはいない筈だ。歩きだそうとした時に、後方から変わった声が耳に届く。

「あかん、青信号や」

 急がんと、という声と共になにやら車輪のような音が聞こえた。
私と共に信号を待っていた人達は先に渡り始める足音が聞こえていた。
関西弁の声の主はキャリーカーのようなものでも押しているのだろうか?

 私の悪い癖は一つのことを考えると他の考えが止まってしまう事だった。
街中はいつも集中して歩かなければならないのに、異端な音と遭遇するとそれが何なのか考えてしまう。
そうでもしなければ怖いし。仕方ないと思っておく。

 今しがたの声の主と思わしき車輪の音が私の横を通過していく。ふと気づけば横断歩道の音響も後半に入り始めていた。
いけない、と思い私も急いで歩き始める。これが慣れた道でなければ次の青信号まで待つけど小さい頃から通っている道だもの。平気平気。
頭の中にもイメージはできていたし問題は無い。地面を杖で叩き、カッカッと鳴らしながら歩き始める。

せかせかと歩きながら、直ぐに横断歩道を渡りきる。これだけでも昔は「取ったどーーーー!!」という気分だった。
暗闇の世界というのは、それほどまでに恐ろしい。後は帰宅するだけだ。
横断歩道から離れ現在位置を確かめていると不意に私の思考に先程の声が飛び込んできた。

「あ、あれ?」

 疑問系だったよ。何があ、あれなんだろうか? 目が見えない以上私は想像で考えるしかない。何かを落とした?
キャリーカー? が壊れた?それとももっと別の何かかな?お願いだから唐突に不測の事態を突きつけるのはやめて欲しいし。
だって幾つになろうと怖いんだもの。でも、先程の声は若干慌てているように聞こえた。

 何か困っているのだろうか、と思いながら私の足は地蔵のように止まったままだった。
だって解らないまま私も動きたくないんだもの。その場の事態が解らないし。

 「あ、あれ?」の声の主がどうなっているのかも知る術も無い。困ったな、と思っていると「な、なして」とか、
「のらへん、のらへんよ」という戸惑いの声が聞こえてきた。凄くあせっているようにも聞こえる。
生の関西弁はそういえば始めてかもしれない。それから、どうやら声の主はまだ小さな女の子みたい。まだ声に幼さを帯びてるよ。

 私にもそんな頃があったなぁと思っていると、横断歩道の音響は青信号が点滅してますよー、という早めの音に変わっていた。
すると声も焦った様に「そないなこと言われても……!」と泣きそうになっていた。
私も是非目が見えるならばこの状況を知りたいと思う。いったい何がどうなっているのだろうか。

 少女の声の位置から察するに、横断歩道の道路と歩道の境目ぐらいにいるらしい。のらへん、と言っていたから、
キャリーカーの車輪が歩道との段差に乗っていないのだろうか。凄い重い荷物なんだろうか?
適当なあたりをつけたままその場に立っていると、ついに横断歩道の音響はプッ、と途切れてしまった。

ということは、赤信号になったという事だ。少女はどうしているんだろう。まだ立ち去った気配もなく、私はまた様子を伺って、
……もとい聞いているとというけたたましい車のクラクションが聞こえてきた。
正直ドキッとした訳だけど何やら少女の声が文句を言いながらも泣きそうになっている事に気づく。

 クラクションの音、のらへんという言葉と、泣きそうになりながら戸惑っている言葉。何かを落としたなら私は手伝えない。
周囲の人間がやってくれるだろうが、それを助ける気配も無い。だというのに少女は焦りながら未だにその場にいる。
もう横断歩道は赤信号、そろそろ車の道路が青信号になるはずだ。私は迷った。助けるべきかな。べきだよね。

 でもそれは私にとって冒険だよ。誰かを助ける。暗闇と同居していると心は一層臆病になる。
今もこうしているけれど、外が怖いのには変わりない。どうする? 己の内に問いかけてみる。心臓がバクバク動いていた。
もしかしたら、やろうとしていることは普通の人が電車で席を譲る程度の行為なのかもしれない。でも怖いんだ。

 どうしようもなく怖かった。逃げたいほどに。心臓が締め付けられたように胸は苦しくなった。

 顔を顰める。慣れないことをしようとして心は迷い続ける。
善は「少女を助けなさい、困っている時に貴方も助けてもらうと嬉しいでしょー」と言う、
悪は「さっさと家に帰ろうぜ。見ず知らずの奴なんかしらねーよこっちは目ぇ見えないっつーんだタコッ!」と言う。

 天秤は絶妙にゆれていた時、どこからともなくその場にいたであろうとぼけたような誰かの声が、私の耳を掠めた。

「あの車椅子の子、何やってんだ?」

 車椅子。キャリーカーでもなく車椅子! そうか、と自分で納得する。
だとしたら少女は車椅子に乗り段差に突っかかっているのだろう。そんな見切りをつける。
でも、もしも間違っていたらという疑問が浮かぶものの迷うのはやめた。も構わない。今目の前では少女が困っている。

 それだけで理由は十分だよ。勇気を出して白杖を叩き少女の元へと向かう。心臓は急ピッチに動いていた。怖くてたまらない。
横断歩道の危険だ止まれ、という足元のプレートを白杖が叩いたから、私はそろりそろりと杖を泳がす。

目標にコツンとぶつかる。いた、少女だ。もとい車椅子だ。尋ねる。

「段差に引っ掛かって車椅子が動かないの?」

問いかけてみると、少女から返答はない。お願いだから何か言ってよ!

「答えて? 私は目が見えないから何も言われないと解らないよ」

「あ、はい!」

 慌てて少女の返答が返ってくる、もう少し気の利いた返事をしてほしいと思ったが、この状況ではそれも仕方ない。
今一度白杖で車椅子を確認するとそろりそろりと手を伸ばし、車椅子のパーツと思わしき場所にふれる。
その間にも車がクラクションを鳴らしてきた。うるさい事この上ない。

「どこを握ればいい? 引っ張るから手に触って導いて?」

「は、はいっ」

 恐る恐るの返事だった。でも、少女の手が私の手に触れると車椅子の握りやすい部分に誘導される。私の手も掴める部分を掴むと、

「いい?」

「お願いします」

 腰に力をいれてふんっ、と段差に引っ掛かる車椅子を引っ張り挙げた。
これで動かなかったらどうしようもないけど幸いにも段差に乗り上げて、無事に車椅子は歩道へと上陸する。
良かったよかった。冒険を終えた私は一息つく。これだけでも十分すぎる戦いだった……、目の前は相変わらず闇。

 少女の顔を知る事もできないのが少し残念だった。

「ありがとうございます、助かりました」

 困っている時はお互い様よ、そんな言葉が出てきたが、私は本当にそうか? と疑わざる得ない。
何せ久しく使っていなかったのだ。少しだけ、懐かしい気持ちになってしまう。苦笑がこみ上げた。

「気にしないで、ね?」

それじゃ、と歩き出そうと白杖を地面を叩くといつもとは違う感触と音が伝わってきた。
それから何かが転がる音も。手にしている白杖を手繰り寄せて先端を探す。無かった。途中で折れている。
足で周辺を踏んづけて探してみる。あった。

 しゃがんで拾い上げる。見事、折れていた……

「……」 「……」

 周囲の自動車の音を他所に私達は沈黙に身を任せた。
でも、私の内心はとてもとても穏やかではない。断じて。

 私の半身が折れてしまったんだよまずいどころじゃないよもう一度杖を両手で探ってみると
なんともど真ん中の所でポッキリと折れているよどういう事大切なのにこれがなくなったら歩けなくなるし!

 ……これじゃ使うことができない。歩くこともできない。あっという間に私の目の前は、……元々闇だけど真っ暗になる。
どうやって家に帰ればいいんだろう?解らなかった。杖もなければ私の見た目はただの健常者だ。
周囲に全盲だと知らせる術は無い。怖い、怖くて仕方が無い。頭の中が真っ白になり何も考えられなくなる。

 いや待て、現在位置は解っているから手探りで少しずつ歩いて帰ればいいだけだよね。そうだよね。自分に言い聞かせるよ。
建物や周辺の状況が変わったわけじゃないし。まだこの二本の腕があるよ。大丈夫と必死に言い聞かせる。
こんな事で絶望している暇は無い。家まで歩いても10分少々だ。大丈夫。一人で帰れる、ちゃんと家に帰れば予備の白杖がある。
今度はもっと硬い奴を頼んでけばいい。……私は一人ブツブツ呟いていると、少女に話しかけられた。心臓はせわしく動いている。

「あの」

「は、あっ、へ、平気!」

 多分、私の顔はこれでもかというぐらいに青白い顔の癖に無理して笑顔になっていたに違いない。
裏返った声で気持ち悪かっただろうに。ごめんね女の子。私は足元の横断歩道の警告プレートの位置をしっかりと確認し、
一人闇の中を歩く。確か、周囲に植木があったはずだ。

 それを求めて手を泳がせながらゆっくりと歩着始めた所で、待ってくださいと少女に声をかけられたよ。

「あの、私が送ります」

「へ?」

「その杖が無いとまずいんですよね。そんなら、私の車椅子に掴まって下さい。ちゃんとナビゲートできるよう頑張ります」

 少女の声は必死だった。とは言っても、私としては願ったりな頼みだった。
ここまで家までは10分少々だけど、杖もなしで出歩いたこともない私はそれ以上かかるのは目に見えている。
今、少女の願いを強がって断り一人恐怖と戦いながら家に帰るのと少女にお願いするのはどちらがいいか?

 考えるまでもない。私はお願いすることにした。安堵の吐息を落とす。

「ありがとう。凄い助かる。お願いできるかな」

「はい!」

 子供らしい元気な声が聞こえた。その子は「手を触ってもいいですか?」と尋ねてくる。私は頷いてみた。
もう一度、手を握られ車椅子のパーツに誘導され、本来は後ろから押す部分まで指を這わせて何とかたどり着いた。
白杖ではないけれど、何か頼れるものがあるとホッとする。少女に少しだけ待ってもらって自分を落ち着かせると行き先を告げ、
少女の合図と共に車椅子はゆっくりと動き出した。私の足もそれに合わせて動き出す。歯車みたい。

「真っ直ぐの道です、段差や障害はありません。車椅子のスピードは平気ですか?」

「平気よ、ありがとう」

 真っ直ぐの道は解っていることだけど少女の言葉は素直に聞いておく、ゆっくりペースの車椅子に導かれながらのろのろと歩く。
これなら少しは話せる余裕がでてきた。時折少女が今何処だ、と今何処を通過した、と教えてくれる為随分と助かる。

「私の名前は八神はやてって言います」

「関西の人?」

「親がそうだったみたいです。私は行った事ないんですけど」

「私も行った事無いなぁ関西。たこ焼きとか食べてみたいわ、本当に」

「おいしいですよね、たこ焼き」

「ホクホクのやつ口いっぱいに頬張りたいわね、ああ……たこ焼き食べたいなぁ」

 そういえばたこ焼きなんてここ数年食べていない。非常に食べたくなる。っと、いけないいけない。
食べ物の話で私の名前を言うのを忘れていた。

「ゲンジョウ ユカリ、玄奘は西遊記の三蔵法師様の苗字と一緒。ユカリはむらさきを漢字で書いて紫」

「ゆかりさんかぁ……あ」

はやての声は思わず名前で呼んでしまいしまった、という封だった。私はくっくと忍び笑いを漏らす。実に関西人らしい。

「いいわよ、ゆかりで」

「でも」

「妙に余所余所しくされるよりそっちの方が楽だもの」

はい、と小さな返事をすると共に後10歩ぐらいで右に曲がりますと言われる。障害も無いらしい、はやての車椅子に従って歩いていく。非常に楽だ。
失礼だけど優れた盲導犬みたい。

「そんなら私もはやてって、呼び捨てでええですよ」

「ありがとうはやて」

曲がり角に差し掛かる手前でまた一言告げてもらいゆっくりと曲がっていく。順調順調。

「紫さんはお歳は幾つなんですか?」

「18、はやては?」

「九つです……」

どこか恐縮したような声に笑い声をあげる。

「あっはははッ 若い若い。いいじゃん9歳、まだまだ人生を謳歌できる歳よ。人生楽しまなきゃ損損」

それにはやては何も言わなかった。困った、滑ったらしい。目が見えないから反応が無いと滑ったという風にしかとれない。慌てて取り繕う。

「あー・・・でも、はやては9歳を数回通過しなきゃいけない。19、29、39、49、59、69、79、89? 199?」

それには苦笑いというか、笑いが漏れてほっとする。

「そないに長くは生きられませんよ」

「解らないわよ、はやては人類最長記録更新しちゃうかもしれないし」

 そう、人なんてどうなるか解らない。私の目しかり。事情は知らないがこの子の車椅子然り。
人の事情なんてあっさりと方向転換する。もしかしたらアンドロイドになって1000の時を生きるかもしれない。
この子が数十秒後に死ぬ可能性だってある。その時私はこの子の血飛沫を見ずに済む。

 怯えるしかできない私には、皮肉にもなりはしない。はやてに導かれるまま、私は無事に私の家に辿り付く事ができた。
つきました、と言われてゆっくりと手を伸ばし表札に触れる。思わずほっとする。安住の地とも言うべき我が家だ。

「ありがとう、助かったわ」

「いえ、そないなことないです」

「謙虚ね。それじゃ」

「あ、はい」

 表札に指を這わしていた手を動かし、門というほどでもないが玄関前の扉を開き、壁伝いに手を這わせて進む。
家の中へと入ろうと玄関の鍵を探したが、車輪の音がしないのに気がついて壁に手を着いたまま振り向いた。

「はやて」

「は、はいっ?」

まだいたらしい。

「お茶でも飲んでく?」

「わ、悪いからこれで失礼しますっ」

 そういって、はやてはそそくさと去ってしまったようだ。車椅子の音が逃げていくように遠のいていった。
逃げなくてもいいのに、と思ったが正直疲れていたのでどちらでも良かった。また会えたら嬉しいな、と思う反面。
もう会えないだろうと思いながら家の中に入る。今日は少し、熱めの濃いお茶が飲みたい気分だった。嗚呼、疲れた。





 はやてと別れてから数日が経った、やはり会う事も無く時間は進んでいる。残念、と思う気持ちとまあいいか、
と思う気持ちは相変わらず同居していた。私はなんら変わらぬ日々をすごす。按摩の仕事で外に出て、少し買い物して帰る日々。
誰かに頼ることなく細々と暮らしている。刺激的なイベントも無く、波もなく、淡々とした日々が過ぎる。

 そんな休日のある日、天気予報通りに雨が降った。朝、目覚めてから雨音に気づく。もぞもぞと布団を抜け出し、
窓際に近づくと窓を開く。途端に、私の耳を雨音が包み込んだ。たまに車の走る音が混じっているが、どうやら
静かな縦降りの雨のようだ。窓を開けても振り込む事もないようだ。

 これ幸いと窓は開いてそのままに、着替えを済ませ朝食の用意をしようと部屋を後にする。キッチンに行き紅茶の用意をしつつ、
ハムエッグトーストを焼く。その間、今日が休日でよかったと吐息を落とす。雨の日は極力外出しないほうがいい。
この音では白杖と、音に集中することができない。それでも、行かなければ行けない時は頑張るが濡れる事濡れる事。

 助かった、と思いながらもキッチンにいい匂いが漂い始める。焼けたトーストと熱い紅茶の用意を済ませ、ドスドスと
早足に自室へと戻る。部屋の中は窓を開いているせいか少しだけヒンヤリとした空気が迎える。手の中の紅茶がとても暖かかった。
窓際に小さな机と椅子を引っ張り腰掛け紅茶を机の上へ。

 これで、よしと私は瞼を下ろす。元から見えないのだから、健常者からすれば笑ってしまう行為でも、あくまで気持ちの問題だ。
耳を雨音に集中する。時折、山彦のようなエンジンと走っていく車の音がやっぱり混ざっていた。
手に持っていたトーストも主張する。早く食ってくれ。冷めたら不味いぞ。口を開いてトーストを迎え入れる。

 焼きたての芳ばしさと、暖かさが口の中に広がる。我ながらの出来だった。
顎を動かしトーストを噛み砕きつつ、紅茶にも手を伸ばす。砂糖を入れ忘れた紅茶は僅かな苦味を主張していた。
雨音と相成って今の私にはそれが丁度良かった。雨は、私の心に平坦さを呼びこんでくれる。

 終わりの無い声がいつまでも続き、たまに雫が跳ねる音は子供の声に聞こえる中、どこまでも雨の声は続く。
主張も無く、激情も無く、涼やかさと途絶えることの無い声が私の心に静けさをもたらす。
今日は何もせずに、一日こうしていよう、と決める。幸い明日も休みだ。

 洗濯機を回すのも、掃除も、全部明日にしよう。明日は晴れの予報だ。それがいい。
雨音に耳を傾けながら、トーストを食い尽くし手についたパン屑を払うと紅茶のマグカップを両手で包む。
少しの肌寒さを暖めてくれ温さが気持ちいい、これが好きな男なら私はきっと天国にいける。

 誰か、耳元で愛を囁いてくれる男はいないものだろうか。男が恋しい。抱かれたい、と思うが生憎と私は万年男日照りだった。
誰かが寄ってくることも、また私から歩み寄ることもない。出会いもなく、また別れもない。雨の涼しさが私を包み込む。
そして、手の中のマグカップが子供のように暖かさを主張していた。いつかはこの子も温くなる。そして冷たくなる。

 その前に飲みきってしまおう、とマグカップに口をつける。熱くて一気飲みはまだできない。
腹も満たされ雨音に抱かれながらウトウトし始める。ああ、眠くなってきた。
私はそのまま眠るけど、数時間後に小さなクシャミと共に目覚める。体と机の上の紅茶は冷え切っていた。

 当然か。相変わらず雨は続いているようで終わりの無い声は続いている。子供の声を引き連れながらよく降ることで。
じゃあね、と別れを告げて窓を閉める。カラカラカラ、パタンと静かな音を響かせながら。
とりあえず上に羽織るものを取りだして寒さを凌ぐ。

 そして、ああ忘れていたと紅茶のマグカップを取り、キッチンに運び片しておく。雨音を聞きながら一日過ごすつもりだったのに
半端な出足となってしまった。キッチンの近くにあった時計のボタンを押すと、現在時刻を音声で教えてくれる。
昼時を少し過ぎた程度だった。

 何か食べる気はしなかったので、また部屋に戻り、図書館から借りた小説を読み上げるCDをセットして椅子に腰掛ける。
何度も借りている好きな話だった。忘れていた、とイヤホンを差して耳につける。延長用のコードをずるずると延ばし、
ベッドの上に横になる。直ぐに、CDから再生され始めた声がイヤホンから聞こえ始める。

『レジアスが地上本部を離れた一報を聞いても、クローン・レジアスに抑揚感はなかった。そもそも、彼に存在意義はないのだ。
何かしようというのが間違いだった。風貌がレジアスと瓜二つである以上、迂闊な行動はできない。何より、
オリジナルに迷惑をかける気はならなかった。地上の為に日々奮闘するオリジナルを想えば断腸の思いである。
 感化され涙してしまうあたり情に脆かった。ただただ、廃棄都市の一角に身を潜め息を殺す日々のみだ。地上の意識が、
蛇とノノに集中し始め、万全を期す状態を常にキープしなければならない。それがクローン・レジアスの使命だった』

「?」

 そこまで聞いていると、何か変な音が家の外から聞こえた。何事だ、と身体を起こす。野良猫かと思ったが少し違う事に気づく。
音が猫のソレではなかった。耳には相変わらず音声が聞こえていたが素通りだ。
いいところだったのに、と思いながらイヤホンを外す。

 予備の白杖を手に、部屋を出ると玄関へと赴く。つっかけに足をひっかけて、玄関の鍵を開き家の外に出てみる。
相変わらず、雨の音がざあざあと聞こえていた。止む気配は一向に無い。いいけどさ。
ポストに手を伸ばし、新しい白杖の連絡が無いかついでに確かめる。

 先程の音の原因が何だったのか確かようか迷ったが、止めようと結論付け、ポストの中身が空で僅かな落胆を迎えた時。
家の前で何かうめき声が聞こえた。思わず、体が竦み、ポストを掴んだまま私は恐る恐る尋ねてみた。

「誰かいるの?」

 返事は無い。このまま家に逃げ戻ればいいのだが、恐る恐る、私の体はポストから離れ傘もささずに家の前の小さな門を開いた。
しゃがみこんでそっと手で探してみると指が何かに触れた。こう、なんと言えばいいのか。ぶにゅっと弾力のある濡れた肉の感触。
「ひっ」という恐れの声が漏れ手を引っ込める。雨の冷たさを忘れるほど驚いてしまった。

 大丈夫ですか?と問うても返答は無い。恐る恐る手を伸ばし肉に触れてみる。まだ体温もある。
ゆっくりとゆすってみたが、やはり返答は無い、が。触れていて一つ気づいた事がある。

「…子供…?」

 指伝いに、その体の小ささが解った。何故うちの家の前で倒れてるのかは知らないが、このご時世に行き倒れだろうか。
私は白杖を脇に挟むと、その子をよいしょと抱えてみる。髪が長いようで、濡れた髪が雫をまといながら私を濡らす。
冷たく重い。なんかマントのようなものを着ている。やはり事情ありだろうか。DVだろうか、と考えながらもなんとか
運べそうだと意気込んだ時に足に、何かがこつんとぶつかった。

「……?」

 なんだろうか。足先で探ってみると先程と同じく、やはり「ぶにゅ」っとした感覚が返ってきた。どうやら1人では無いらしい。
子供を抱えたまましゃがみ、一応の確認をしておく。手探りで触れてみると、こちらは成人の女性のようだ。
手が胸にふれると柔らかかった。

 巨乳だね、と思いながらもとりあえず1人を家の中へと運ぶ。
続いて、母親?なのか知らないがもう1人の女性も家の中へと運んだ。
こちらはもっと重く半分引きずりながらなってしまったが勘弁してほしい。非力な私はこれが精一杯だったんだ。

 2人を運び終えると玄関の鍵をかける。相変わらず、雨はしとどと降り続けていた。それからが重労働だった。
2人とも雨にずぶぬれの上、着ている物を脱がして風呂にぶちこもうとしたのだが、何故か脱がすことができない。
一時はハサミで切ろうかと思うほど謎な服だった。脱がし方の解らない服は諦めて、濡れた体と髪をタオルで拭いている時に、

 ある事に気がついた。少女の方は兎も角、女性の方がおかしいのだ。尻尾と思わしきものと、犬に似た耳が頭にくっついている。

「こっちはマント着てるし、異星人……?」

 とんだ来客だが、弱っていることには変わりない。客室の同じベッドに湯たんぽと一緒に放り込む。
私も疲れたけど、とりあえず起きた時に何か食べられるようにと調理を開始する。暖かいものがいい、それから水分補給。
そこで気がついた。、部屋のCDを再生しっぱなしなことを思い出して落胆した。自室に戻ってイヤホンを片耳に押し当てると、
ほぼラストの台詞が流れていた。がっかりしながらイヤホンを外し、CDをとめる。

 また最初から聞きなおそう、と思いつつキッチンへと戻る。あの人たちがおきるまで暇そうだから、点字の本でも読むとした。
警察に通報は、あの人達の話を聞いてからにしよう。もしも彼女達が怪我をしていたら、私は見逃した事になる。

 死なれたらどうしよう。

 その時は、死体の処理が面倒そうだ。ああ、でも警察に任せればいいかと楽観的に考えた。
点字の本を読みながら、2人が死体にならないことをしばし願った。本に没入し直ぐに忘れてしまのだけれど。
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