べろ、べろべろべろべろ……。

「……」

 遺跡から程近い場所で、クーパーは最大サイズのアルトに馬乗りにされ、顔を舐められていた。
眼帯も顔も髪もぐっちょり唾液まみれで辟易する。でもそれ以上に、改造されたデバイスの性能に嫌気が指していた。

「…カドゥケス」

『yes.』

「…一体、何されたんだ」

 左目を閉ざし、溜息をつきながらアルトにどいてもらう。返ってきたデバイスの性能テストは散々な目にあった。
改造というよりもむしろ、改悪だろうか。最悪だった。答えのない問いかけばかり、とりあえずシャワーを浴びようと宿に戻る。
アルトをちっこくするのを忘れていたとばかりにデバイスに頼もうとしたが改悪ぶり起動させる気が失せた。

 自分で構築させてアルトを小さくする。背中によじ登ってくる爪の感触を得ながら、石畳の道を歩き宿に戻った。
その間も自問自答する。

「…スカリエッティは僕に何をさせたい? 僕が犯罪者を満足させる何かを持ってるとでも?」

 まるで解らない。仮宿の中で、着ているものを全部脱ぎすてて眼帯も投げ捨てる。
右の瞼が空気に触れる感触は、いつでも違和感を感じる。記憶は常に構築され、新たな自分を作る。
でも、過去の自分への興味も尽きない。浴室へと足を運びながら1人ぼやく。

「…何が調整だ腐れ犯罪者! 舐めてんじゃねえぞボケがッ!」

 誰にも聞かれないのをいい事に罵詈雑言を吐く。
文句を言いながらシャワーの蛇口を捻る。体は酷くだるかった。
最悪、だ。


【Crybaby.-Classic of the A's3-】



 今日も今日とて、遺跡でコツコツ作業をする中でふと思い出した。
どうせ兄さんがなのはさんの世界に行くなら、フェイトが要望していた聖書も頼めばいい。
なのはさんに本屋に案内してもらって2人ででかければいい。2人はきっとうまくいく、という変な事を考えていた。

 善は急げというわけで、直ぐにウィンドウを広げて、通信をつなげてみる。つなげてから、はやまったかと後悔するあたり、
馬鹿なクーパーだった。直ぐに、兄の顔がドアップで表示される。

「どうしたのクーパー?」

「…失礼しました。なんでもありません」

 プチっ

 通信が繋がった途端自分で切ってしまった。思わず頭を抱えて悶えてしまう、何をやっているのかと。
呼吸を落ち着かせると遺跡の中で1人、気を取り直してもう1回。再度、ユーノの顔が表示される。

「はいクーパー」

「…すみません、失礼しました。その、ちょっとお願いがありまして……」

 やっぱりやめておいたほうが良かったかもしれない、と体を小さくしていると、ユーノにはくすりと笑われた。

「それで?」

「…その、フェイトからの要望です、すみませんが97管理外世界に赴いたら聖書を一冊、買ってきてもらえませんか?」

「聖書? そんなのでいいの?」

「…ええ。お願いします」

「うん、解った。ちょっと嬉しかったよ、クーパー」

 通信映像の兄は、笑顔を浮かべる。

「…? 何がです」

「いやさ、クーパーから連絡貰ったの初めてだったからさ。またくれると嬉しい」

えへへ、なんてユーノは笑っていた。

「一応明後日行く事になってるから、そのときには買って来るよ」

「…お手数おかけします。代金は後で払いますので、」

「本の一冊ぐらいいいよ、それとも代金の代わりに、その敬語やめてもらえるっていうのも、嬉しいかな。
それじゃクーパー、これから僕も遺跡の打ち合わせだから、また連絡頂戴」

プチっ

「…・・」

 今度は兄の方から、一方的に通信が切られてしまった。でも仕事と言ってたし文句も言えまい。
というよりも、今のクーパーの問題は今しがたに言われた事だった。フェイトアルフに続き兄にまで、
敬語をやめろと注文をつけられてしまった。

「……」

自分のほっぺたを両手で握り、ひねってみる。

「……」

 痛い。笑えという注文でもないから、楽と言えば楽だが兄に対して敬語を使わないと言うのはなかなか難しい注文でもあった。
頬を捻っていた指を離す。後を引く痛みが僅かに残っていた。
兎に角、聖書を態々管理外世界にまで買いに行かずに済んだのも助かった。

 クーパーは意識を仕事に切り替える。やれ、また仕事の日々だ。
クロノから裁判の呼び出しがあれば応じるが、一度開廷すれば数週間の期間が空いてしまう為当分先だ。
ユーノが言っていた明後日も遺跡の仕事に夢中になっていると直ぐに過ぎてしまう。

 ユーノに連絡をとってから明々後日の朝、アルトと朝食を食べながらふと思い出す。
相変らずヤギのようにサラダをもしゃもしゃと咀嚼しつつ、あーそういえば兄さんとなのはさんはどうなったかな、
という興味が湧き出てきたのだ。流石に、「ユーノ君の馬鹿ー!」と言われて盛大な紅葉をつけられる事は、無かったと思うが。

 何も無かったにしてもなのはに感想を聞いておいても損はない。
そう思いながら通信のウインドウを開いて、なのはに回線をつなげる。
開いたウィンドウにはパジャマ姿のなのはが現れた。

 瞼は半分落ちていて、酷く眠そうだ。幸い、向こうの時間帯も朝らしい。

「おはよう、クーパー君……」

「…おはようございます。すみません大丈夫ですか?」

「……うん……平気……」

 まだボーっとしているが、大きなあくびを一つ浮かばせて、眼を擦ると少しずつ意識が浮上してくる。
いつものなのはに戻ってきた。

「久しぶりだね、フェイトちゃんも元気?」

「…元気でしたよ。この前の裁判の時に会いましたけど、なのはさんの効果が効いてるみたいです」

「にゃ、にゃはは、そんなことはないよ」

 何やら照れ笑いで、もしも目の前にいたらまたまたーとか言いながら、肩をバシバシ叩かれそうだった。
なのはもなのはで、特に変わりない様子らしい。少しだけ安心する。

「…それで、すみませんが兄さんと昨日はどうでしたか?」

「へ? あ……」

 誰が見ても解るぐらいに、なのはの表情が一転する。あまり、嬉しそうな顔はしていないが怒った風にも見えない。
そして吐き出された一言に違和感を覚えた。

「ユーノ君、来なかったよ」



「…え?」

「だから、ユーノ君来なかったよ。
これから行くよって連絡もくれたんだけど…来なかったの。私は、お仕事で何かあったのかなって思って……」

 なのはの言葉が耳から入ってまた耳から出て行く感じになる。頭は相応の理解をしていない。

「…来なかった?」

 疑問が渦巻く。ユーノが約束をボイコットするとはあまりにも考えられない。よほどの事態にでもならなければ
そんなことにはならないだろう、と考える。何かあったのだろうか。何かあったとしても連絡を寄越すのがユーノだ。
義理堅い子供だ。

「…何か連絡は?」

「ううん。何にもない。クーパー君何か知ってる?」

「…特に何も。それじゃ確認してみますね。何か解りましたら連絡します」

「ありがとう。それじゃあ朝ごはん食べるから、またね」

「…朝から失礼しました。楽しいお食事を」

 では、と一言告げて通信を終了すると僅かに考え込む。仮にあのユーノが約束をすっぽかしたとしても、
後になって慌てて謝罪を入れるタイプだ。とはいえ、それは約束を守れなかったり忘れた場合だ。
本来は約束が無理になったら連絡は先に入れるタイプの人間だ、とクーパーは考える。何かあったのか?

という小さな心配が浮かぶが、とりあえずユーノに連絡を取ってみる事にした。通信用のウィンドウを展開させる。

「……」

 でも、兄の顔は表示される事無くウィンドウは暗いままだ。なかなかユーノの顔が表示されない。
出てくれ、早く出てくれ。じりじりと胸の中から焦りが込み上げてきた。何かあったのか?
遺跡の崩落にでも巻き込まれたのか? それとも遺跡でトラップでも踏んでしまったか?

 そんなドジをする兄だとは思えないが、兎に角兄の身に何かあったのかと考え続ける。
結局、通信は繋がらないままで諦めて苛立ちと共にウィンドウを消去する。
もしも遺跡内の事故ならば、スクライアの誰かが報せてくれる筈だ。

「…ああ、もうっ」

 サラダを皿を取って急いで口の中に掻き込むと、パンも口の中に無理やり押し込んでから水で一気に流し込む。
皿を手に立ち上がると流しに置いて口を拭う。食休みもしないまま、アルトを見る。

「…行こう、アルト」

 ご主人の声がかかり、四肢といわず体を震わせて起き上がる。
そして、1人と1匹は仮宿を出ようと玄関の扉を勢いよく開けた所で、

「おわっと!っと、あぶねぇッ」

「…ビムさん?」

 玄関口には、タバコを咥えたビム・スクライアがいた。急に扉が開いたせいで、ボロ階段から落ちそうになっていた。

「おお、悪いな……ってんなこと言いに来たんじゃねぇ。ユーノの奴が入院したらしいぞ」

早々に、いやな展開にぶち当たり顔を顰めて苦虫を押し潰した。足元でアルトの目がなんのこっちゃと窺う。

「…何があったんです?」

「それが解んねぇそうだ。何故か第4管理世界で倒れてるのが見つかったらしい」

 その意味は解りかねた。兄がいるのはもっと別世界の筈。クーパーも行った事は無いが、その世界の名前は知っている。

「…第4……? カルナログでですか?」

「ああ、…あー……これから一緒に行くぞ」

その一言は症状を言うのを躊躇い誤魔化した一言だった。ビムが階下に行くよりも先に服を掴み押さえつける。
相変らず、クーパーの中で焦りだけが立ちのぼる。ビムに縋った。

「…兄さんの症状は?」

 流石に、ビムもタバコを携帯灰皿に取り出すとギュっギュと押し付け態度を改める。

「リンカーコアの消耗がやばいらしい、俺も、詳しくは聞いてない」

 それは安堵すべきなのか、それでもとビムをせかす。

「…解りました、急ぎましょう」

 今ここで議論しても答えなぞでやしない。急いで転送ポートに向かうと、カルナログへと飛ぶ。
ちなみに病院にアルトはつれていけないから、結局お留守番。

 こんな機会を以ってカルナログに訪れる事になるとは、思いもよらなかった。
カルナログの首都らしい街の転送ポートからは、徒歩で直ぐの病院にユーノは収容されたしい。
それは幸いだったのか、クーパーとビムも、直ぐにその病院へと向かう。
でも、その病院の中は結構混雑していて、早々にうんざりする。

「タバコ吸いたくなるわー……」

「…我慢してください」

 ビムの愚痴も解らないでもないが、とりあえず受付でユーノの病室を聞いて一直線に向かう。
234号室と聞いた。早足に歩いていく。229、230、231、少しずつ近づきついに234号室を見つける。
部屋の前にはユーノ・スクライア、という手書きのネームプレートの挟まっていた。
ビムと顔を合わせる間もなく、扉に手をかけて部屋の中に入る。

「……」

 入り口で足が止まる。中はただ白かった。清潔な白い部屋の中で、ベッドに横になり腕に点滴を繋げられるユーノがいた。
眠っているようだ。瞼は閉ざされ見た限り意識は無い。
部屋の入り口で立ち止まっていたが、ビムに入れや、とせっつかれ部屋の中に足を踏み入れる。

 ただ昼寝をしているようにしか見えない。見た目判断だが外傷もとくになさそうだ、これには一安心とホッと一息つく。
寝顔も、酷く穏やかだ。入院と言うからもっと凄いものを想像していたのだが、安堵する。
ビムと2、3話をしてどうするか相談していると、直ぐに担当医らしき先生が姿を見せる。

 別室にビムとクーパーは連れて行かれた。その先生用の部屋なのだろうか、慣れた椅子にどっかりと座り込む。
2人は立ったままだった。レントゲン写真やら色んな資料がそこかしこに置かれている。

「ふむ」

 白衣を纏った腹が出てる医者の先生は、カルテのようなものをいくつも見ながら一人頷いた末。
顔を上げる。蝦蟇のような人だった。

「お2人とも、ご家族ですか?」

「そんなとこですな」

 ビムもクーパーも頷き茶釜腹の先生は大きな溜息を落とした。
何か、まずい状況だとでも言うのだろうか。クーパーの中で不安がよぎる。

「ユーノ君の症状ですが……リンカーコアの激しい消耗の他にもう1点、大きな問題を孕んでいます。
と、その前に……少々重い話なんですが、そちらの子も聞きますか?」

 ビムは少し出ていろ、とは言わずにクーパーに尋ねる。

「どうする?」

 クーパーには直ぐに答えられなかった。ユーノの何が重い? 胸の中で何かがざわつく。怖かった。
怖いけど、クーパーはここにいることを選んだ。恐怖の中で、何も知らないことを拒んだ。医者とビムに向かい頷く。

「…僕も聞きます」

 医者は溜息をつくと一枚のカルテを手に取り読み上げる。

「(せんえいせい)遷延性意識障害。ユーノ君は今、これになる可能性がある」

「…せん……?」

 クーパーの頭の中に遷延性意識障害等と言う単語は無い。疑問系で反芻させてしまう。
ビムは、というとあちゃーという顔だった。解っていないクーパーに医者は続けた。自分の頭を指でつついてみせる。

「脳にね、強い衝撃を受けると人は昏睡する。厳密には違うが解りやすく言うと気絶だ。解るね?」

 医者の言葉にクーパーは頷く。

「でだ。ユーノ君に外傷はないものの、何かの強い衝撃を受けて頭をぶつけた。そして彼は昏倒した。
交通事故でも魔法事故でも多い事例だけど、昏睡状態に陥った人間が目覚めないと言うのは、珍しい話じゃないんだよ」

 医者はふぅと溜息をつく。しかし、クーパーにしてみれば今の最後の言葉を聴いてとてもじゃないが信じたくない話でもあった。

「…ちょ、ちょっと待って下さい。兄さんは目覚めないんですか?」

 先生はじっとりした眼で上目遣いに見てくる。それが妙な威圧感を漂わせた。

「正確にはいつ目覚めるか解らない、だよ。最悪一生目覚めないケースもあるし眠ったまま脳死と言う場合もある。
今後、ユーノ君に関しては正直言って先行き不明だね。手の施しようがない」

 そんな言葉信じたくは無かった。生きてるのに外傷もほとんどないのに? 目覚めないだって? 無論信じたくはない。

「…起こす方法は?」

「だからこれといった方法は無いんだ。差別用語にあたるからあまり言いたくはないんだが……
遷延性意識障害に陥った人間を世間一般ではこう呼ぶ」

 先生は手に持っていたカルテを置き眼線を落としどっかりと肘をついた。クーパーも先生から目を逸らす事は出来ない。
信じたくない状況に、これ以上の輪をかけないで欲しかった。そして先生は溜息をつき、椅子に深く腰掛ける。
改めてクーパーを重い視線で貫いた。

「植物人間、だよ」

 先生の言葉は続いていた。植物に人間はどーだこーだと何か言っているようだがクーパーの耳には何も入ってこなくなっていた。
兄が消える。目覚めないかもしれない。植物人間となった人が目覚めた事例も無論ある事ぐらいは知っている、それでも
目覚めない確率の方が高いのは眼に見えている。

 体が生きながらも目覚める状態がほぼ無いに等しい状態の人間は、生きているとは言わない。それは、死だ。
生物としての死だ。脳死とはまた異なった死なのだ。

 動物たちが生きる自然界で全盲の動物がどうなるか知るか? 全盲のサイは一日中その場に立ち尽くすのみ、
襲われれば暴れまわり、そして死ぬまで立ったままでいる。
生きながらにして死んだ状態の動物は自らの手で考える事も死ぬこともできない。ユーノは笑うことも話すこともできない。

 生きているのに。

 クーパーの世界が色褪せていく。全身から力が抜けるような気がした、そんなこと認めたくは無い。
このちっぽけな2年間、そしてここ数日の想いはなんだったというのか? 問いかけに対し嘘だ嘘だと頭の中で必死に否定し、
ついぞ口にも出す。力なく顔を横に振る。

「…そんなの、うそだ」

 体は力無くを否定していた。それでも、医者の目は淡々としていた。

「嘘じゃないですよ」

改めてつきつけられるも認めたくは、ない。

「…嘘だ、嘘だ……っ、この前はあんな笑ってたのに、目覚めないなんて嘘だッ!!」

「落ち着け、クーパー」

 言葉が乱れ、荒くなりかけたところに、ビムの手がクーパーに伸びる。
医者はただ、眼を閉ざし溜息をつく。仕方が無いという風か。
患者の身内が直視したくない現実から目を逸らすのは、珍しい話でもないのかもしれない。

 それでもクーパーは否定せずにはいられなかった。心が煩雑になり酷く乱れる。兄さん、兄さんと呼びかけるばかり。

「…なんでだ、何で兄さんがこんな目に合わなきゃいけないんだ」

 クーパーの左目からボロボロと落ちる涙。それを拭おうとも止まることを知らない。
自分の頭の中までユーノを失ったと認識している。兄はまだ生きている。でも、でもと。認めない。認めたくない。
体は勝手に動いていた。担当医の部屋を飛び出して、廊下を走りユーノの病室に駆け戻る。

 走る。

 まだ体は綺麗なのに目覚めないなんておかしい、きっと枯渇しているリンカーコアが回復すればきっと目覚めてくれる。
しばらく寝たらきっと目覚めてくれる。また笑ってくれる。いい、自分なんてどうだっていい。
ちゃんと2年前の事も謝り切れていない、自分の意地のことなんかどうだっていい、ごめんなさいと一言でもいい、言いたかった。
忘れてはいない。こんな事、……

 あの時の兄の顔を、表情を。駆けていた足が緩やかになり、ユーノの病室の前で止まる。
泣きながら走ったせいで呼吸は乱れ肩が僅かに上下していた。部屋に入る前に涙を拭う。
兄さんはきっと目覚める。そう願いながら病室の中に入った。中の印象は清潔なまでに白。

さっきも来たというのに新鮮さを感じる。そして、ベッドの上で眠るユーノも、相変らずだった。
昼寝をしている様にしか思えない寝顔だ。

 優しい寝顔で、今にもあくびをしつつ目覚めそうな印象を受ける。あれ? クーパー…? と
眠たそうな表情で起き出しそうに見えて仕方が無い。部屋の中に入る。ゆっくりとユーノの様子を窺いながら、
ベッドの脇にある来客用の小さなイスに腰を落とす。音も無く腰掛けていた。

 そして、横になり眠っているユーノの横顔を見て率直に人形みたいだと思った。
ただ眠るだけのその人は恐ろしく綺麗で、人形のようで生きてるというのに死体にも見えた。
クーパーの手が伸びてそっと前髪を払う。

「…嘘……ですよね……こんなに綺麗なのに……怪我だって……」

 初めて会った時は互いに女の子かと勘違いしていた。懐かしい話だ。前髪をはらった指は額から眼窩の横を通り頬を撫でる。
でも反応は何も無い。本当に、このまま目覚めないままでいる気なのか。
顔から手を離し、ユーノの掌や腕を指でくすぐってみたりしても、やはり反応は無かったどこまでも寝たままだったが、ふと。

 ユーノの瞼がぴくりと動いて少し開いたのをクーパーは見た。起きた、ただその思いが胸の中でじわりと広がる。
思わず、声たからかに兄さんと、呼ぼうとした時。薄っすらと目を開いたユーノの口から、何か声が漏れているのに気づく。

 か細い声だった、耳を澄ます。

「ぅー…」

「…兄さん……?」

 ユーノの言葉は、意味のある単語を発していない。あー、とか。うー、とか。うなるような低い声が漏れているだけだった。
ただ、それだけ。僅かに開かれた瞼の上でクーパーは手を動かしてみる。瞳は何も反応しない。
ユーノはわざとやっているんじゃなくて、目覚めていない。そして一抹の希望を振り切るようにユーノの瞼は閉ざされていった。

 喜びも何も無い。先程と同じように眠っているだけだった。

 何も状況は変わりもしない。そして医者の先程の言葉を改めて思い出し改めて突きつけられた気分になった。
これはもう数日前の兄じゃない。兄の形をした死体だ。ほんの僅かな可能性で目覚めるかもしれない、哀れな死体。
クーパーの唇はゆっくりと動き、傷ついた風船から空気が漏れ出すように、唇が歪んで釣りあがる。涙と共に。

「…は、」

 笑いは次第に昂ぶっていく。ユーノは起きてない、全然起きてない。なんだったんだ今のは? ただの脊髄反射か?
 ならばそんなことに一喜一憂したのは何だ?ただのぬか喜びか、壊れたオモチャのように笑いが止まらない。
ユーノのベッドに拳を叩きつけ尚も笑い続けた。

「…あははは…あっはははは……!」

 次第に、笑みは嗚咽に変わり顎が壊れそうになる程歯を食い縛っていく。
ベッドの上で手は硬く握り締められ、涙が止まらずに流れ続けた。この涙はなんだ?
自分の無様なあり方はなんだ? クロノが言った通り本当に大切な人を失ってから気づく。

 でもそれじゃ遅い。遅いと解って本当の意味での大切さに始めて気づく。2年、2年何をしていた。
自分のプライドなど捨てれば良かった、聖書なんて頼まなければ良かった、一緒に行けば良かった、行くなと止めれば良かった。
行く日を変えてもらえば良かった。

 クーパーの心は穿たれ、ユーノのベッドの上に幾度と無く悲しみと絶望の涙が叩きつけられていく。
こんな事に、ならなければ良かったのにと思っても、どんなことをしてもユーノは目覚めてはくれない。
起きる可能性があるとすれば、それは雀の涙のような可能性にすがるしかない。

 もう、好きだった兄に笑顔を向けられることは無い。
名前を呼ぶ声は嗚咽に飲み込まれ言葉にならなかった。ただ、左目から涙だけがこぼれ続ける。
不明瞭な怪しい笑い声だけがいつまでも響いていた。
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