暑い夜だ。
ベッドで眠っていたクーパーは目を覚ました。
部屋の中は真っ暗、アルトもいるが闇に紛れている。ぼんやりとする意識の中で、顔を少し動かして暗い部屋を見つめる。
寝返りをうちうつ伏せになる。

 少し大きめの枕に顔を埋めて思いっきり溜息をつくと自分の顔に生暖かさが伝わり、恐ろしく気持ち悪かった。
暫くの間動かなかった。死体のように。

 どれほどの時間が経ったか。闇に紛れ時間はぼやける。
猫が顔をあげた。寝返りとは違う衣擦れにアルトは目覚め主の様子を窺う。
小さな影はゾンビのようにベッドから這い出ると、水道のある簡易キッチンに向かい蛇口を捻る音を寄越してきた。

 直ぐに水が流れる音が聞こえ始め、手も使わずに水の流れに直接口つけていた。
顎や首、襟が濡れようとも構わず飲み続ける。命からがら、オアシスに辿りついた旅人のように。

「…っはぁ」

 一息の声。手が蛇口を閉め濡れた口許を拭う。左目は虚ろで闇を見ていた。
その場から一歩も動かない。
彼を苦しめるのは夢だ。

 最近は鼎と兄の夢を交互に見る。それに加え、ウェンディと接触してからというものの焦燥感に身を焦がす。
ユーノにスカリエッティ。そして自分自身。

 どうにかしなきゃという焦りばかりが先行して気持ちが空回りしている。
今から数時間前も酒を体の中に放り込んでようやく眠れたと言うのに、余計な事ばかり考えてどうにかなりそうだった。
暑さがより一層空回りを加速させていく。

 今は酒に手を伸ばす気分にはならず簡易のキッチンを離れ着ていた寝巻きを脱ぎ捨て、全裸になると浴室へと潜り込む。
蛇口を捻るとシャワーの極上の冷たさが叩きつけられる。髪も肌も濡れて、暑かった体が心地良い。
浴室に響き渡る水音と、自分の体を叩く水の冷たさと感触が好きだった。

 顔を上げてシャワーのヘッドを見るやクーパーの顔に冷たい雫が降り注ぐ。左目の眼球も水滴が幾度と無く触れて目を細める。
右目の傷痕も水は叩いては落ちていく。髪は水気を吸って重くなり、しとど雫を垂らしながら濡れた髪独特の艶やかさを見せていた。
黒が映える。ずっとこの気持ちよさが続けばいい。左目も瞑りながらそう思っても、現実は水道代だなんだと面倒がかかってくる。

 公共のプールにでも行けば一日中こうやって水を浴びる事もできる。一度やってみるのもいいだろう。多分飽きる。
長時間とはいかないものの暫くの間水に抱かれながらすごした。でも、夢も終る。
 手がゆっくりと蛇口に伸びて捻る、途端にシャワーのヘッドからは水の流れが止まり、気持ちよさは途絶えた。

 少しの名残惜しさと共に、そこらかしこから垂れる雫の音が聞こえてくる。
まばたきを繰り返してから近くにかけてあったバスタオルを取る。厚手で柔らかな布地の心地良さに顔をうずめる。
ぷしゅーと吐息が漏れ出していた。顔を離し髪をゴシゴシ拭い始める。髪も水気を手放すと、どこかしっとりとする。

 体を拭き終わると新しい寝巻きに着替えて暗い室内を歩き寝床に戻る。また眠気が戻ってきていた。
ベッドに腰掛けた時、ふと思う。どこにいるかは解らないが闇に向かい声をかける。

「…おいで、アルト」

 闇の中で体を動かす音がしてから、金の双眸が闇に灯る。今は普通の猫サイズ。尻尾をゆらゆらベッドの上にぴょんと飛び乗る。
獣の目は酷く優しい。クーパーの左目は細くなる。

「…寝よう」

 か細い声で、にゃーんと返事を返される。クーパーが右腹下にごろりと寝転ぶと胸元にそそそと潜り込んで来る。
抱き枕のつもりは無いが、抱き寄せる。柔らかな毛並と動物の温もりが心地良かった。
手を当てていると、心臓の鼓動の音が静かに聞こえてくる。

 これが最良の子守歌、少し速めのメトロノームのように優しいぬくもりを届けてくれる。
昔はよく、兄と川の字になって眠っていた。でも、もうきっとそんな事は無い。
アルトを抱きしめたまま眠りにつく。朝になるまで穏やかに眠り続けた。







 連日、同じ事の繰り返し。クーパーは9歳にして一種のワーカーホリックでもあった。
早朝と呼べる頃合に左目が開いて体を起こし、眼帯をつけ朝食は鼻をつまんで牛乳を飲んだ後、
アルトと一緒にヨーグルトとパンにジャムを塗って食べるだけ。職場に赴き仕事をこなす。アルトは留守番。

 今は壁画の解読作業。何かに没頭していると時間が経つのは速く。時折同族が遺跡の中に入ってきて挨拶を交わしながらも、
作業に続ける。それをひたすらに繰り返していると、いつの間にか腹が減る。要は昼時だ。
仮宿に戻ってもいいし適当な店で食べてもいい。昼食どうしようか、と思っていると声をかけられた。

「おいクーパー、客だ」

 薄暗い遺跡の中で振り返れば、タバコ代わりのパイポを口に咥えたビム・スクライアだった。
見る度にオッサン臭いと思わざるえない。立ち膝の姿勢から立ち上がる。

「…誰です?」

 汚れた両膝両手をはたいてから、ビムと一緒に遺跡の外への道を歩きだす。
遺跡の中は、照明は組まれているがやや薄暗い。ビムがきな臭い笑みを浮べる。

「にーちゃん」

「…?」

 言っている意味が解らず、左目を丸くする。ただ、ビムが咥えているパイポが唇の上で揺れ動いていた。

「だから、お前のにーちゃん」

「……」

というと、1人しかいない。クーパーの表情は少し翳る。それを見ながらビムの鼻息が盛大に飛び出した。

「そんな嫌いか?」

「…解りません」

 顔を顰める。問われてもクーパーの胸の中は未だに混沌としている。あれに対する感情は未だにぐちゃぐちゃなままなのだから。
答えなぞでやしない。そんな落ち込む仕草をみせたクーパーの頭をぐしゃぐしゃと撫でられ手を振り払う。

「…やめてくださいよ」

「なーにがやめてくださいよだ。ちったぁ頭撫でられて嬉しいなーとか頭ん中お花畑にして喜んどきゃいーんだよ」

「…意味が解りません」

 それでもビムの手は止まらず、クーパーの頭をぐしゃぐしゃと撫で付けてから眼帯の紐をひっぱって弄ぶ。
若干どころか酷くうざい。それも振り払った。

「…アルトにお尻齧らせますよ」

「おおっ、そりゃ怖い。でも俺はそんなドMじゃねーのよ。勘弁してくれ」

 ぽんぽんと頭を叩かれたところで、2人は遺跡を出る。外の日差しが若干眩しくて、思わず手で左目を覆い隠す。

「ちょっとぶりだね、クーパー」

 声をかけられ翳された手の下で左目が動く。ユーノだ。アースラでは挨拶もしなかったから、凡そ数週間ぶりといった所か。
でも、互いにそこで口が止まっていた。ビムはクーパーの頭をつんつんしてくる。

「…なんですか」

「いや、もう今日あがりでいいぞ。どーせ古代語の確認してるだけだべ? そんなの俺がやっとくからいーよ」

「…カルフセス王朝の古代文字本当に解るんですか」

「勘。いやうそすまん。どのみちお前の進捗に怠りでねーから平気だべ? ちったぁにーちゃんもてなしたれや」

 クーパーはビムをジト目で見てから、溜息をつく。

「…解りましたよ。では資料整理だけお願いします、」

「おうおう」

 返事代わりの溜息をついておく。もう、相手をするのが面倒臭くなる。クーパーはさっさと歩き出した。

「…行きましょう」

「あ、うん」

 2人は遺跡を後にする。そんな同族をビムは見送りながら、パイポをしまいタバコを取り出して火をつける。
煙を胸いっぱいに満たしながら盛大な吐息と共に吐き出して満足する。

「仲が悪いんだかいいんだかねぇ……?」

 後者だと願いたい。
遺跡を出て街に戻った2人だがなかなか会話が弾まない。時刻は、ちょうど昼の12時を回っていた。
歩きながら話す。

「…今日はどうしたんです?」

「ああ、ビムさんとちょっとね。他の遺跡について話さなきゃいけないことがあったから」

「…そうですか」

「でも、クーパーの顔も見たかったから」

「…僕は見たくありませんでした。来ないで欲しかった」

「ごめん」

 青空の下申し訳なさそうに謝るユーノの顔が印象的だった。
石畳の硬い歩道を歩く。しかし、クーパーは何を言ったらいいのか、解らなかった。
フェイトやなのはに散々お兄ちゃんを大切にしろだ、あーだこーだと言われたせいか、随分と意識が毒されている気がする。

 頭を抑えると溜息をついた。気を張ったところでどうにもならないと力を抜く。

「…兄さん食事は?」

「いや、まだ何も」

「…この時間帯は混むから……、よければ何か作ります。ご希望は?」

「え?」

 まさかのリクエストにユーノが固まる。クーパーは溜息をつきながら、ジト目だ。

「・・嫌なら、行列か混雑した店でも構いませんが」

「いや!いやいやいやいや!!なんでもいい、何でも食べるよ!」

「…暑いですし冷たいものでも簡単に」

 決まりだ。ユーノは追いかける形で石畳の街を歩く。
こうやって一緒に歩くのは2年ぶりだ。PT事件で確かに一緒にいたこともあったが、
こんな空気にはならなかった。それに、この街に来ても突き放されるだけと思っていたユーノは不思議だった。

 今までのクーパーなら、目も合わさずに挨拶をして終わりだろう。
今日は何かあったのだろうか。

「オゥーラークーパー!」

「…オーラー」

「アメーゴー!」

時折、街の人たちから声をかけられる。ユーノはその様子を見ながら首を捻る。

「何語?」

「…ヒスパルシュ…っても解りませんよね。なのはさんの世界のスペイン語に近い体系の言葉です」

 はいどーぞとばかりに小さな本を渡してくる。読め、ということらしい。歩きながらユーノもそれに眼を通して納得する。

「ああ、なんだ。古代王朝系のなんだ。もっと別の言葉かと思ってた」

「…デバイスを介したら翻訳も楽なんですけどね」

「習うより慣れろ?」

「…そういうことです」

 クーパーはひらひらと手を振ってみせる。

「ラテンっていうのかな、そういう匂いがする」

「…そうですね。
なのはさんの世界の遺跡めぐりとかも、してみたいです」

「ああ、やっぱり?」

 やはり惹かれるものがあるらしい。
2人の足は街の市場に向いて適当な野菜を購入すると、それを手に建物に挟まれた日陰の裏道を通り、クーパーの仮宿に向かう。

「風情でてるねー」

「…ええ」

目的の建物は直ぐで、ボロイ階段を登って到着する。中には、小さいアルトが床の上で寝っ転がっていた。
私物は少なく、やや閑散としているものの寂しさを感じさせる色はなかった。どちらかというと薄い温かみがある。

「…直ぐ作るんで待ってて下さい」

ぐいと、クーパーは腕まくりをしつつ簡素なキッチンで手を洗う。当然、待っているユーノでもない。

「手伝うよ」

「……待っていて下さい」

「ごめん、手伝いたいんだ」

 ただ、ユーノは苦笑していた。とりあえずクーパーは拒む事もなく、買ってきた野菜を必要な分だけ分けて、
残りを仕舞い使う分を水でざっと洗う。

「冷やしパスタでいいの?」

「…ええ、それで」

 会話は少ない。手を洗い準備を済ませたユーノも、道具の場所を聞いたりするだけで、後は淡々と料理をこなす。
黙っていても相手の意思を汲み取り料理をすることができるのは、さんざ、2年前にやってきたことだからだろうか。
ブランクを感じさせる事もなく黙々と料理に打ち込む。

凡そ30分弱の調理で、料理はできあがる。市場で買った適当な野菜のトマト炒めの冷やしパスタ、

「できた」

「…お疲れ様です」

料理が完成すると、テーブルの上に運ぶ、クーパーは野菜の切れ端をアルトに放り投げると、
めざとい黒い影はキャッチして、ガリゴリ噛み砕いていた。

「クーパー、食べよう」

「…ええ」

 2人とも席について、それぞれパスタを口にする。評価の程は、

「…60点」

「70点かな。でももうちょっとソースに追求しても良かったかも」

「……そうですね」

 ユーノの評に対して、クーパーは何か言おうとしてやめてしまった。俯いてパスタを啜る。

「(……)」

 何気なく、今ユーノと楽しげに話しているのが恨めしかった。こんな些細なことで喜んで、今までの自分はなんだったのかと。
料理に対する評も、態度も覆い隠して食事を続ける。泣きそうになるのをこらえるのが、必死だった。理由は解らない。
黙って食べる。

 ユーノもそれに気づきながら、何も言わない。嫌な空気でもないが、結局食事の間2人に言葉がかわされることもなく、
聞こえたものといえば食べる音と食器とフォークが触れる音、それにアルトの欠伸ぐらいだった。
パスタ以外は何も作らなかったから、直ぐに皿は空になる、これまた食べるのも速い。

 食べるのに使っていたフォークが、空になった皿の上にカランと音立てて置かれる。

「ご馳走様、美味しかった」

 クーパーはその評に対してそうですね。と小さく付随させておく。空になった二つの皿を重ねて、
クーパーが流しへと運び水につけると、戻ってくる。ただし、手にはショットグラスが二つと一本のボトルが握られていた。
中には魔力光と同じく、鈍いブラウンの液体が入っている。量は半分程減っていた。

「お酒?」

「…舐めるだけです」

 グラスをテーブルの上に置くと、ボトルのコルク栓を引き抜き独特の音が聞こえた。
キュポン。

「ねえクーパー、ボトルにALC50.5%って書いてあるのは気のせい?」

「…気のせいじゃないですね」

 ボトルを傾け、ショットグラスに茶色の液体を注ぐ。注がれた液体は光に反射して僅かに金を思わせる黄色が輝く。
コルク栓で再びボトルの口を閉ざす。そしてグラスを取る。ユーノもグラスをとった。僅かに杯を掲げてみせる。

「…サルーテ」

「さるーて?」

「…乾杯と」

「ああ」

 納得したようで、復唱するとユーノは少しだけ杯に口付けるとむせた。

「げはっ?! 痛い、喉痛い!」

「…まぁ、バーボンなんで」

クーパーも同様に口をつける。だというのに、むせるでもなく、ショットグラスに口をつけて難なく飲んでいる。
そんな様子を、ユーノは呆れる。

「いっつもこんなの飲んでるの?」

「…ええ」

 クーパーはショットの分量を飲み干すと、またグラスに注いでゆく。新たな茶色の液体が満たされる。
ユーノはもう一度口をつけてみたがやっぱり口に合わなかった。重い味と、喉を焼く感覚にはどうしても慣れない。
そして、クーパーが言ったことの意味に気づくが口に出すのは憚られた。

 左目は、自分の掌を眺めていた。すぐにショットグラスを取り残っている杯の中身を口の中に放り込む。
手が口許を抑えながら滑らせる。口の中でバーボンウイスキーが転がされ、噛みながら仄かな甘さとスパイシーさを飲み下す。
強烈な熱さが喉を焼き、立ち上る煙のようにアルコールは頭を攻めてくる。酔って溺れる。ただのドラッグ代わりだった。

 20歳にも満たない子供が酒を飲み自虐に浸る。どこまでいかれているのか。また飲み干すと椀子蕎麦のように注ぐ。
皮肉な笑みを浮べる。顔は少し赤くなっていた。酔っているのだろうか?

「…兄さんがここにいるのも、僕には夢物語なんです」

 ユーノは何か感じ取ったのか。首を横に振る。

「違うよ、僕はここにいるっよ」

 飲み干す。開けては閉じてを繰り返すコルク栓を解き放ち、ショットグラスの中に注ぎ込まれた。
僅かに数滴がテーブルの上にたれた。血痕のようにぽたぽたと。
ユーノは、手の中でグラスを動かしその色を眺める。間が空き、ユーノも一息に酒を飲み干す。

 舌と喉は相変らず痛かった。でも、申し訳無さそうな笑顔を作る。

「僕が許してもらえる日は来るのかな」

 そんなものを軽々と見せ付けられたから、クーパーは息が詰まるような気がした。
酔いの有無で言えば酔っている。でも、意識が不明瞭になるほど酔ってはいない。
手にショットグラスを握ったまま動きが止まっている。心臓だけが一人足早に動いている。

 主の異変に気づいたのかアルトが体を起こしクーパーの膝の上にぴょんと飛び乗る。
その重みが、止まりかけたクーパーの思考を再び動かし始めたようだった。何を言えばいいのやら。
恐怖がクーパーにまとわりついてくる。僅かに首を捻り、左眼も僅かに細める。沈黙が2人の間に置かれた。

 逃げていいところじゃないと思いながらも受身に回る。グラスに残っていた酒を飲み干し、口許を拭う。あの夜と同じように。

「…拒まれるのが怖くて、今の関係のままでいいと思う僕は臆病者です」

 笑っているユーノを求め、怒るユーノの陰に怯えている今、そしてそれを隠すように怒る姿を晒す哀れな姿。
現状のその先の何かを求めるのが怖くて手を出せない。何も言えない

「臆病者っていうなら、僕も同じ。でも、それでもやっぱりクーパーには笑っていて欲しいんだ」

 ユーノは気丈だった。

「…2年前の僕を求めるなら無駄です。あの時の僕はもういません」

「ううん。違うよ。今のクーパーも、あの時のクーパーも全部一緒だよ」

「……」

 ナプキンで口を拭う。でも心は今すぐ逃げ出したかった。怖くて怖くて仕方が無い。兄が優しさが今はただただ辛い。
笑顔や優しさを向けられるたびに有刺鉄線で締め付けられる、そんな感じがした。
痛くて怖くて、それが嫌でいままで求めても拒み続けた。

 そして今もそれは変わらない。そんなクーパーに、ユーノが手を差し出した。2年前、長老のテントでした時同じように。
ユーノ以外にもここ最近だと偏屈執務官やへんてこナンバーの構成員とも握手はしている。でも、少し特別な気がした。
兄弟を始めたあの日の握手を思い出す。

「ねえクーパー、もう一度握手しよう」

「…握手ですか」

「そう。2年前のことはもうご破算とか、忘れたりはやっぱりできない、
でも、僕はクーパーと兄弟でいたいんだ。また、一緒にいて、一緒に話がしたい」

 未だに、ユーノの手は伸ばされたまま。クーパーはなかなか手を出さない。

「…僕は」

 ここで拒むのは簡単だ。でも、痛みに耐えながら、手を伸ばしたその先は何が待つ?
優しさというしがらみが己の枷となりながらも、兄の手は目の前にある。あこがれだった。
ただ兄と共にいることを望みながら、2年前は和解の手も自分で払った。そして、今。クーパーの手は震えが止まらない。

 弱者の真髄だ。惨めさだ儚さだ愚かさだ。みっともなさだ。
その震えを殺す為にも、手を硬く握り締める。

「…無理です。兄さんを殺したいと思っていたこともありました。もう僕は」

「無理と思うのは怖いから? 人は完璧じゃないよ。僕も、クーパーもそうだよ。喧嘩もしたし失敗もした。
それでも僕はクーパーと仲直りをしたい」

 それはユーノ1人の我侭ではない。誰かに責があるとすれば、2人ともしょいこんでいる問題だ。
そして、1人は一歩前に進んだ。もう1人は? 未だに動けずにいる。逃げる? それとも、手を取る?

「…僕は」

 歯噛みする。ジリジリと苦しみの声を上げる心を、自分はどうしたいのか?
どうしようもない心が何を思うかは、考えずとも解っている。それが、酷く悔しい。
歯を食いしばった末の事。硬く握られていた手クーパーの手は差し出されるユーノの手を取る。

 その手は酷く震えていた。中毒者のように。
俯く。声まで震える。

「…許して下さい。兄さんの教えに背きます。僕はまだ、貴方に優しくできるほど余裕もない」

 それでも、とばかりにユーノは首を振った。クーパーの左目からは涙が垂れ流される。
拭おうともせず、ただユーノから握られる手に力を込めた。

「そんなことない、ありがとうクーパー」

 ユーノはただ頷くだけだった。ぽとりと、何かが落ちていた。






 ◎月×日、衝動的に書き始めたクーパー・S・スクライアの日記より。
兄さんと仲直り?……したのかな、よく解らないけど関係改善に向かい一歩進めた気がする。
まだ兄さんと話すのは怖い。それでも、一歩、本当に一歩だけど、近づけた気がする。

 これもフェイトやなのはさんに、兄を大切にしろと散々言われ続けたせいかもしれない。
今度、お礼をしたい。……でもフェイトは牢の中だし、ハイチーズというのはあまりにもシュールだ。
何かいい方法があるか偏屈執務官に聞いてみよう。兄さんといえば、今度97管理外世界に行きたいと言っていた。

 なんでも、なのはさんの店に行くのが目的みたいだ。なのはに会いたいみたいなことを言っていた。
好きなのか聞いてみたら顔を真っ赤にして慌てていた。我が兄ながら解り易い。

「な、なのはとは、別に違うんだ。でも、その…」

 顔を真っ赤にしてそれはないと思う。でも、なのはさんと兄さんが将来くっついたら、それはある意味幸せかもしれない。
第97管理外世界に繋がりがもてるということは、向こうの遺跡にも手が届くかもしれない。これはいい。
見るだけでいいから是非行きたい。料理もおいしそうだし、いいこと尽くめだ。ついでに兄さんの幸せを願う。

 いつの日か、なのはさんを義姉さんと呼ぶ日が来るかもしれない。
どうなるかは解らないけど、なのはさんとうまくいくことを祈る。

 人は1人では生きられない。

 誰の言葉か知らないけど、名言だと思う。人は良くも悪くも誰かを頼る、僕もそうだし、兄さんも、なのはさんも、
フェイトも、あのプレシアもそうだったんだと思う。僕の繋がりは、今後どうなっていくんだろう。
昔のように、あんな優しい僕を取り戻せるんだろうか?、先のことは、誰にもわからない。それでも、

僕は誰かと生きたい。

 この日記は誰にも見せられない、そう思いながらノートを閉ざした。そこに執務官から連絡が来た。裁判の呼び出しだ。
返信を済ませる。

「…いい加減寝ようかな」

 大きな欠伸をこなしつつ、眼帯をとると机の上に置いておく。
寝巻きに着替えて、スタンドライトも消すとベッドの中にもぐりこんだ。
部屋の中は、真っ暗だ。

「…お休みアルト」

 主の声に猫が小さく一鳴きする。そして、夜目をぎらんと輝かせて部屋の中をちょこまか動く。
翌日、というかいつものことだが、クーパーは目覚めると眼帯が枕元にあることに気がつく。そして装着する。





 しばらくするとクーパーは、堅苦しいスーツ姿で時空管理局本局に赴く。面倒臭いと思ったが仕方が無い。
そして裁判というのはもっと堅苦しい。裁判長がいたり、色んな人が意見を言う。傍聴席にも多くの人がいるし、
怖そうな顔の人達もいた。クーパーはPT事件の証人や参考人として召喚され、色んなことを裁判で言う事になる。

 尤も、どれも形式ばったもので、内容もクロノがまとめてくれたものを言うだけでいい。
頭の中に暗記された文章を、棒読みにならないようにベラベラ話す。それだけだった。
ちなみに出廷した時にフェイトとアルフを見たが、特に異変はなさそうだった。

 やはり、フェイトには高町パワーが効いているのだろうか。同姓の友人とは、やはり影響力が強い。
1回目のフェイトの裁判が終わると局内のベンチでボーっと座っていたクーパーに、クロノが姿を見せる。

「感謝するよ」

「…は?」

 早々にそんなことを口にされて、クーパーの左目は、なんですかそれはと追いかける。

" 君の証言のお陰で,裁判は随分と有利に進む。助かってる "

 態々念話で言う辺りは流石なのだろうか。クーパーは溜息をつきながら一瞥を吐き捨てる。

「…それは、何よりです」

「少しは素直に受け取ったらどうなんだ?」

「…そういうことにしておきましょう」

 思わず、うんと言いそうになった自分を自重させる。いけない、と思いながらもゆるくなった自分に違和感を覚える。
相手はクロノだ。ユーノじゃない。

「…ああ、そうだ執務官。フェイトにケーキの差し入れってできますか?」

「ケーキ?」

「…ええ、なのはさんのご自宅はケーキ屋…なのかな。なんかやってるらしいので、無理ですか?」

「ケーキか…食べ物の差し入れはちょっと無理だな。手紙とか、そういったものなら平気だ」

「…不勉強ですみません」

「いや、いい」

 となると、なのはに手紙を書いてもらったほうが効果的だ。事前に連絡しておいて、一筆とってもらったほうが早いだろう。
でも、ユーノが行くのならば、お願いするのもいいかもしれない。それぐらいの所用は、引き受けてくれるだろう。

「…裁判は、勝てそうですか?」

「当たり前だ、勝ってみせる」

 そこは、自信を滾らせるクロノに、クーパーは苦笑いで逃げておいた。熱いんだか冷たいんだか、
よく解らない執務官だった。強い信念というか、強い正義があるからだろうか? そういうところは羨ましく思う。

「…それじゃ、フェイトに顔を出して帰ります」

「ああ、何かあったら連絡してくれ」

 了解です、という言葉と共に腰を叩きながら立ち上がり、手をヒラヒラさせつつエレベータに向かう。
ボケッと突っ立っている間局員であろう女性が後ろに立った。エレベータを待つ時間というのはやたらと長く感じるが仕方が無い。
待ちに待って、ようやく扉が開くと、女性と共に乗り込む。

「…何階ですか?」

「すみません、14Fで」

 言われるがままに、14のボタンを押す。2人きりの個室空間は妙な感じがする。
一度だけ、ちらりとクーパーは女性を見ると手に紙袋を持っていた。そしてクーパーの視線に気づくとニコリと微笑まれてしまう。
バツが悪くて目を逸らす。女性が指定した14Fまでエレベータは止まることはなく、
アナウンスが14F到着を告げた時、女性はもう一度、微笑んだ。

「お届け物ですよ」

「…は?」

 そして、手に持っていた紙袋をクーパーに押し付けて女性は降りていってしまった。
ポーン、という音と共にエレベータのドアはしまっていく。女性の後姿と、紙袋を何度も往復して見返す。
押し付けられた紙袋が存在感を示すように、ガサガサ音を立てた。

「…なにこれ?」

 クーパーの動揺は兎も角として、エレベータは再び動き出す。手許の謎の紙袋を凝視しつつ、
とりあえず中身を覗いてみると……。先程よりも強いインパクトに襲われる。紙袋の中身は2つの銀色の腕輪が梱包されていた。
曰く、調整名義でどこぞのマッドサイエンティストに提出していたカドゥケスだった。それに加えて、
何やら取扱説明書らしきものまで入っている。

「…へ?」

 ということは、先程の女性もスカリエッティに関わりがある者なのだろうか。
でも局の制服着てたし……?、と思っていると、いつの間にかエレベータは目的の階に到着していて、ドアが閉じかけたところで、
慌てて下りる。エレベータは「なんだよ早く降りろボケっ」と言わんばかりに扉を閉じて開いてを繰り返した後、もう一度で扉を閉ざす。

 クーパーは紙袋の中身を覗き込んだままエレベータの前で立ち往生している。傍から見れば、
紙袋に顔を突っ込んでいるようにも見える。あの子供、こんな所でゲロってるよ。だろうか。時折、局員が不思議そうな目で見ていた。

「……」

 とりあえず、混乱を抱えてトイレの中に駆け込んだ。女子トイレに入りそうになったのは内緒だ。
男子トイレの個室に入ると、ガシャンと鍵をかけて腰を下ろす。動揺しすぎて、体が思考と同調しない。
改めて紙袋をガサガサしつつ中身を見れば、梱包されてはいるが、銀の腕輪のカドゥケスの姿がある。

 あの女性も多分マッドサイエンティストの構成員なのだろうか、カドゥケスを渡す為にあそこにいた?と帰結させる。
でもそう考えると、ますますクーパーは、監視をされていることになる。もしくは通信のやりとりを見られているのか。
うーんと頭を抱えるが、解らないものは悩んでもしょうがない、とりあえず梱包されたカドゥケスを取り出すと、
ビリビリと破って取り出す。銀の腕輪は相変らずだった。両腕に、それぞれ銀の腕輪を通す。待機モードは以前と変わりない。

「…カドゥケス、起動」

『yes.』

 今度はブーストデバイスを起動させてみると、少しだけ形状が変わっていた。
手甲の部分に、何やら重々しい付属品が装着されている。邪魔だな、と思いながらも色んな角度から見ていると、
何かの為のパーツであることに気づく。咄嗟に紙袋の中にある取扱い説明書に手を伸ばす。

 やたらと読みやすく商用のものと変わりない、と思いながらページをペラペラ見ていくと、あった。
取扱い説明書にはこう書かれている。

「…試作型カード魔力充填システム?……??」

 自分が装着するブーストデバイスを見る、取説を見る、もっかい同じ事を繰り返した後、
再び紙袋の中に顔を突っ込んでから、顔上げて、紙袋の中の、ビリビリに破かれた梱包の中に手を突っ込んで手探りで探す。
直ぐに、硬質なものが指に触れてそれを取り出した。同じく綺麗に梱包されたカードが3枚ある。

「……」

 男子トイレの個室から、なんじゃこりゃーーー!!という絶叫が響き渡り、
小便をしていたとエセサギルという名の局員はびっくりして手にかかっちゃったそうな。

南無三。







「……えっと…」

 面会に来たクーパーの顔を見て、フェイトは引いた。やるせないような悔しいような自棄になったような、
そんな感じのクーパーがいた。

「ど、どうしたのクーパー?」

「…いや、ちょっと馬鹿が馬鹿みて泣いてるんだ。ごめん。
悪の科学者の考えてることなんて、一般人には解らないもんだね」

そして、深い溜息をつく。フェイトには言っている意味が理解できなかったが、
とりあえず頷いておいた。そうでもしないとやりきれないぜ、という風に、クーパーが見えたからだ。

「デバイス、裁判の時は外してたよね」

「…え?」

既に待機モードに戻しているカドゥケスを指摘される。見られていた、というよりも気づいていたらしい。

「…よく見てたね」

「デジャヴかな、いつもクーパー、銀の腕輪してたしさ」

「…まぁ、そうなんだけど」

 頭の中には、もわもわと人の事をクリボー呼びするウェンディと、先程のエレベータの中で会った局員?の顔が浮かんでくる。

「クーパー、何かあった?アースラにいた時よりも、表情が柔らかくなってる」

その指摘をされた時、思わず体が止まってしまう。今度はユーノの顔が浮かんでは消える。

「…そうかな」

「うん、なんていうのかな。優しくなった…っていえばいいのかな」

「……」

 それは、少しは2年前の自分に近づいたということだろうか。
今の自分は、昔の自分を平坦な心で見つめる。楽しそうに笑う、楽しそうに話す。
今は、それができない。あの笑顔を作れない。顔面の筋肉が拒むように、どんなに取り繕うと駄目なんだ。
でも、フェイトの指摘はありがたく頂くことにする。

「…ありがとう、って今の会話普通逆じゃない?」

「そうかも」

 少し変わったね、そうかな?、という会話は囚人が指摘されるべきものであり、
フェイトが指摘するべきものではないのがおかしくて、2人は笑ってしまう。
クーパーも一頻りに笑うと口許を抑える。

「…ああ、今度兄さんがなのはさんに会いに行くみたいだから、
メッセージカードでも貰ってくるように頼んどく」

「ありがとう、嬉しい」

 フェイトの表情、仕草からみるに、随分と闇は落ちている。
牢という過酷な環境にいるにも関わらず、ここまで明るいのは、やはりなのはのお陰なのだろうか。
そんな風に思いながら、クーパーの左目がジーっとフェイトを観察していると何か言いたげに、
でも遠慮しているという実に子供を連想させるのが、ちらちら見え隠れし始めた。

「…頼みごとでもある?、それとも聞きたいこと?……とりあえず、僕ができる範囲ならなんでもするけど」

「あ…うん」

 そして、申し訳無さそうにフェイトはあるものをクーパーに要望した。
それを聞いて、どこか納得しつつも、疑問系で返してしまった。

「…聖書?…うん。別に構わないけど」

「ごめんね、無理ならいいんだ」

「…いや、必ず持ってくる。次の裁判の時ぐらいまでには用意しておくから」

「ありがとう、クーパー」

 要望されたのは、第97管理外世界の聖書。この世界にも聖堂教会なるものがあり、
神がうんたらかんたらという教えが、ないわけではない。あえてあの世界を希望するのは、
思いいれの所為か。あえて探りはいれなかった。

「…それじゃ、少し早いけどこれで失礼するよ。また次の機会にでも」

「うん、またね」

 クーパーは面会室を後にしようとするが、最後に一度だけ、振り返った。
フェイトはまだ、座ったままだった。

「…僕以上に、フェイトの方がいい顔してるよ」

 それだけ告げて、クーパーは返事も聞かずにその場を後にした。
扉は閉ざされる。また会いましょうの奏でだった。
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